魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

死と再生

2016年07月19日 | 占いばなし

以前、日産が無くなったと言ったら、今もあるじゃないかと叱られた。このブログでも、雪印が消滅したと言ったら、即座に「今もあるんですが」と突っ込みのコメントが入った。
この時、意味的に消滅したと返したら、かえって激高されたので、それ以上答えなかった。

占いでの「異変」を、無くなると言ってしまうから、誤解を受ける。日本は7世紀から綿々と日本だが、支配体系は何度も変化した。ほぼ定期的に政権交代が起こり、北条政権も、足利政権も徳川政権も亡んだが、それを、日本が無くなったと言えばやはり叱られる。だが、それまでの実体が無くなったことは事実だ。

時代時代で、日本の姿は変わり、海外からも違うものとしてみられた。足利政権のように対外貿易に熱心な時代もあれば、徳川政権のように鎖国政策をとった時代もあった。
名前は日本でも、違う国と言っても良いくらいの変化だった。

日産も雪印も名前が無くなったわけではないが、周知の通り会社の実体は既に別物だ。
これが占いでいう波の影響、栄枯盛衰で、もちろん名前ごと消えることもあるが、要は実体の入れ替わりこそが、組織の死と再生だ。

この意味で、天王星が水瓶に来た時、任天堂は無くなると言っていたのだが、結局、任天堂は今もあるし、今回、爆発的な大ヒットをしている。しかし、天王星通過後、木村社長は亡くなり、ゲーム機に頼る業態は行き詰まった。
そして今回の大復活は、ハードを捨てたモバイルゲームであり、ゲーム機時代のキャラクター遺産を活かした業態として、生まれ変わった。今回の大ブームは、逆に過去の任天堂の死を確定したとも言える、新しい任天堂の始まりを告げるものとなった。