魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

七人の敵

2016年07月03日 | 日記・エッセイ・コラム

ダッカ・テロの被害者が、「日本人だ撃たないでくれ」と言っていた話しを聞いて、ものすごく悲しくなった。
多くの日本人がそうであるように、日本人は海外で好かれていると信じていたから、とっさの時に、そう叫んだのだろう。

誰に強制されたわけでもないのに、人を殺して自分も死のうと思っているような人間は狂人だ。
熊に遭遇して、日本人だと言ってもやられてしまう。それでも、熊の気持ちを読み取れば、助かる場合も無いこともない。
自分は動物好きだから、必ず喜ばれると思って、ライオンに近づいて死んだ人や瀕死の重傷を負った人もいた。

確かに、総体的に日本人の評判は良い方だ。しかし、世界中の誰でもが日本人を好きなわけではない。クラスの中の美人でカワイイ優等生を全員が好きなわけではない。むしろ、そのことで非常に嫌われている場合もある。性別に関係なく、自分がそうではないから憎む場合もあるのだ。

他人に対する判断は、心理学や占いの類型論とは違い、個々の現実を見なければならない。パターン通りの人は実在しない。中国人はとか、日本人はと言う場合は、総じての話しであって、個人はそれぞれ違うのだ。日本人は皆礼儀正しく真面目で良い人だと、日本人として言えるだろうか。同じように、どこかの国の人が全部悪い人ではなく、国籍だけで人を判断できるわけがない。

その現実を忘れて、日本人は好かれていると信じ込んでいると、とんでもないことになる。現地協力で行った人なら、なおさら好待遇ばかりだったかも知れないが、現地の人が何を考えているかを、決め込むことはできない。
まして、今回の相手は狂信のテロリストだ。何国人など関係なく、コーランを暗唱できるか、知識があるかだけが判別基準だったと聞く。

見ず知らずの土地に行って働こうと思えば、土地の人との関係にも心砕いていただろうし、土地の人との信頼関係を信じなければ、とても、安心して滞在できるものではない。
だから、日本人は好感を持たれているから大丈夫だと信じていたからこそ、日本人だと名乗ったのだろうが、恐らくは逆効果だった。

外国で、自分が日本人だから安全だなどと言うことはあり得ない。必ず厚遇されるとも限らない。もし、そうであっても、単なる幸運に過ぎない。安全な地域が安全とは限らないし、恐れてばかりいても何もできない。
例え遊びであろうと、一歩日本を出れば、日本を背負っているという責任感と、状況を冷徹に見極める覚悟が問われていることを、忘れるべきではないだろう。

あらためて、犠牲者の冥福を祈りたい。