魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

我慢傲慢

2010年08月09日 | 日記・エッセイ・コラム

No.992

「我慢」という言葉は変な言葉だ。
字面で見ると、「自我+慢心」だから、「自慢」にも通じる。
「自分を抑える」とは、真反対の意味だ。

不思議なので、辞書を見ると、「辛抱すること」に並んで、やはり、「我を張る」とか「強情・高慢」があり、仏教用語から出たものらしい。
なんで、「我慢」しないことが、「我慢」することになったんだろう。
辞書には、その経緯までは書かれていない。

で、勝手に推察するに・・・
おそらく、我慢しない人、我を張る人に対して、
「それは、あなたの我慢というものですよ。辛抱しなさい」
という意味で言っているうちに
(ほら、また出た、あなたの)「我慢」・・・「我慢、我慢ですよ!」
となって、「ガマン」と言えば、辛抱することになった。

だから、もしそれを「傲慢」と言っていれば、今頃はガマンすることは「ゴウマンしなさい」だったかも知れない。「ジマンしなさい」だったかも知れない。

言葉が逆転したこととは、また別に・・・
ガマンには、「つもり」が逆転している、ということがある。
自分では、ガマンしているつもりの人が、実は、全くガマンしていない・・・と言えば、猛烈に怒られるかも知れない。

「自分はガマンばかりさせられている」と言う人は、まだ素直な人で、
「自分は、いつもガマンしている」と、向上努力をしているつもりの人は、自分と他人にウソをついている。

「ガマンしている」とは、自分を出さないで押さえていることだから、本音は、納得はしていない。
もし、自分の欲求が、客観的に理不尽なものだと思ったり、解決策に気づいたなら、我慢する必要は無いはずだ。

だから、「ガマンしている」ということは、自分の欲求は曲げようとはせず、表面上、折れているだけに過ぎない。
つまり、これこそが仏教で言うところの「我慢=慢心」であり、辛抱するという意味の「ガマン」とは全く逆の、「自省のない不遜の心」ということになる。

易経「節」に、「苦節不可貞」とある。度が過ぎる無理な節制は正しくないと言うことだが、このような「ガマン」にも、同じ事が言える。
自分を抑えるとは、「冷静」に自分の欲求を知り、その解決策を探る努力のことだ。自省し、相手を理解し、妥協点を探る努力だ。

自分は努力をせずに、欲求が通らないことを相手のせいにして、本音と違う態度を取ることを「ガマン」することと思うなら、それは、自分と相手を欺くことで、苦しいばかりで、やがて不幸の元となる。