魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

生き写し

2010年08月08日 | 日記・エッセイ・コラム

No.991

電車で、中村泰治を細面にしたような男性がいた。アロハシャツの横顔を見ると、絵巻の中によく登場する庶民のような顔をしている。
顴骨高くぎょろっと目をむいて、事件に驚く顔だ。
絵巻の中では、たいていは、慌てて駆けだしている。

とにかく、どこかで見たような顔だが、この人ほど絵巻物を連想させる顔も少ない。
猫背で、アロハを着ている上半身しか見えないので、きっと、上っ張りを風に巻き上げ、下半身はフンドシ一つで走り出しているにちがいない・・・と、思わせる。

親子3人の行楽帰りらしい。奥さんは肝っ玉母さん風。真っ黒に日焼けした6年生ぐらいの息子は、10年もすれば、オヤジそっくりになりそうだ。

改めて、絵巻物の絵師の描写力に感心した。
そして、千年近く昔にも、やっぱり同じ顔の日本人達が、泣き、笑い、怒り、嘆きながら生きていたと思うと、日本という島が、いかに恵まれていたか、誰にとはなく感謝したくなる。

実際、もっと短い時間になると、ほとんど顔が変わらない。
子供の頃生活をしていた街を訪ねると、街角から、幼なじみの「あいつ」が、突然、現れる。思わず、「おい」と声を掛けたくなるが、考えたら、そんなはずがない。

何十年も経ったのに、あの時のあいつが、今流行りのTシャツを着た10代で、現れるわけがない。それでもそっくりだから、呼び止めて、名前を聞きたくなるが、きっと、息子でも孫でもないだろう。
その街は、そういう顔がいる土地なのだと、改めて、思い出す。

小説やドラマで、昔の彼女の娘に出会う話しがよくある。どうも、センチメンタリズムが気に入らないのだが、生き写しという設定は、まんざらデタラメでもないようだ。