魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

事なかれ

2010年08月01日 | 日記・エッセイ・コラム

No.984

やっぱり、どうしても、「虐待Gメン」が必要だ。
この話題は、「また」が枕詞だ。

また、育児放棄された子供が死んだ。児童相談所の大阪市こども相談センターの24時間対応「児童虐待ホットライン」に、何度も通報が入り、その都度訪問しながら、結局、「見殺し」になった。

このことは、単に、虐待の問題だけではない。日本の死病だ。
悪平等と言われる徹底した「ことなかれ」は、封建秩序の上に、いきなり民主主義を与えられた日本社会の矛盾による「機能停止」だ。

民主主義は、社会、国家の構成員、つまり国民が、自ら主権を勝ち取る過程で、意識と仕組みが生まれてくる。
この過程を経ていない日本は、「人権と人格の尊重の上に成り立つ平等」と言うものが理解できない。

だから、形だけ平等にしようとした結果、悪平等が生まれ、一方で、自己中と言われる、社会意識の欠如が生まれた。
これは、民主主義とは名ばかりの愚民化だ。
「意見を戦わせながらも社会機能を保つ活力」を押さえ込み、一方で、社会に非協力な自己主張や自意識だけが増長された。

民主主義社会が機能するためには、失敗を恐れない個々の主体的行動が必要だが、悪平等は、あらゆる主体的行動を押さえ込む。
学校で「いじめ」が始まったことは、集団の中で、主体的言動を押さえ込むことが、教育として当たり前になっていたからだ。

出る杭を打つ悪い伝統が、民主主義に取って代わり、優等生であればあるほど、自主性を押さえた「鳴かぬキジ」になる。
したがって、学校で習得した技術やノウハウで仕事に就いた「専門家」には、修羅場の決断はできない。

日本のあらゆる公務に、恐るべき「無為」が広がっている。
官僚、地方公務員、警察、自衛隊・・・果ては大企業まで
形だけは立派に見える、あらゆる組織で、「オレがやらなきゃ誰がやる」という人間がいなくなった。仮にいたとしても、組織にツブされる。

何かあった時、守ってくれるはずの組織は、ただの「張り子の虎」かも知れない。
近年、1990年代頃からの、バブル崩壊、阪神大震災などで始まった
「誰も守ってくれない!」という、危機管理問題がますます深刻になってきているような気がする。

児童福祉の現場で、「優秀な」担当官が何も出来ない。
事に当たって、即効性、徹底性を高めるために、「虐待Gメン」のように、あらゆる組織のトップに、大きな権限と責任を持った人材を置き、動きやすいように法律や、規則を整える必要がある。

しかし、それをすること自体が、この国では難しくなっている。