魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

世界共通語

2009年11月06日 | 日記・エッセイ・コラム

今でも熱心な人たちがいるようだが、20世紀初頭、エスペラント語がブームになった。
しかし、結局は、英語が事実上の世界共通語に収まっている。

どんなに簡単にしても、結局、片言会話に勝る共通言語はない。と言うことだろうか。
言葉は理想や訓練で使われるものではなく、必要で使うものだということだろう。支配力に応じて広がるものだ。
力による支配もあれば、金による支配もある。

文化による支配もあるように見えるが、文化は独立して広がることはない、力と金の支配のもとに広がる。
日本のアニメ等の文化も、単独で広がったものではなくコンテンツ商品として広がったことを忘れるわけにはいかない。商品にするためには翻訳や文化調整が必須だった。

戦後、アメリカ映画や音楽がアメリカ経済とともに広がり、世界全体をアメリカナイズしたように、ジャパンク-ルというものも広がっている。その効果に着目したのが韓流だが、目的意識の形だけでは続かない。

経済力と、そこから生まれた文化の厚みが、言語の波及にまでつながる。そういう意味で日本語も捨てたものではないが、全体的な支配力という点で、共通言語までは考えられない。

しかし、内容的には日本語は共通言語の資格があると思う。
日本語の生い立ちはいまだに謎とされているが、様々な人々の寄り集まり列島で形成された日本語は、言われている以上に、合理的で生命力がある。
日本語の難しさとされているのは社会文化の問題だ。言語の成り立ちそのものには雑種の強さがある。

具体的なことを言うと必ず叱られるが、
片言で話す場合、例えば、おまえ+「言う+ある(いる)」と言えば、「おまえが言ってる」ことになる。古い関西ではそのまま「ゆうたある」という人もいる。「ゆうたある」は「ゆうとる」になり「ゆってる」になる。この形成順序の違いを言われれば反論できないのだが、こういう成り立ちを窺わせるものが多くある。説明はつかないが、雑種の臭いがするのだ。

共通言語
何語でも良い、世界の人が苦労なく通じる言葉が欲しい。しかし、言葉が文化である以上、不可能だ・・・不可能だった。

今、その不可能を可能にする時代が目の前に迫っている。
人工知能が高度な翻訳を可能にする。高度な翻訳とは完全翻訳と意訳まで可能にすることだが、解説まで付けることもできる。
バベルの塔のくびきを早くといて欲しい。

その日を見ることが出来ないのが、はなはだ残念だ。