魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

因縁話

2010年04月11日 | スタンス

母は霊や因縁を語る人だった。父は科学信仰の信者だった。
父は、母が語る神秘や霊をことごとくバカにしていた。

結婚当時、母の実家に親戚中が集まって寝ていた時、母が、庭に誰かいると言うので、父や伯父達が気負って家中を探したが、誰もいなかった。物心ついてからも、父はこの騒ぎを笑い、母はその月夜の不思議な人影をほんとうに見たのだと言い張っていた。

山里の母の実家には、母が生まれる以前から様々な因縁話があった。
隣家の一族が病気で死に絶え、最後に残った息子は腹を切って死んだ。
その後、その当時の曾祖母が寝ている隣の部屋を、腰に荒縄を巻いた見知らぬ人が通り過ぎて行くと、しきりに息子に訴えるので、始めはバカにしていた息子が、行き先の部屋の押し入れを開けたところ、行李の中に、腹を切って死んだ息子が持ってきた、形見分けの帯があった。

そんな家で育った母には、何事にも因縁がつきまとっていた。
父が30代の頃、遠く離れた父の友人が突然、病死して電報が来た。
落胆する父の横で、母が「どおりで、夕べから体調が悪かった。きっと、OOさんの苦しみが乗り移っていたんだ」と同情していた。
母の体調が悪くて苦しんでいたのは事実だが、子供心に、そりゃ、我田引水だろうと思った。(我田引水という言葉は知らなかったが)

不可解を語る人と、合理性しか認めない人との間で育ったためか、不可解を合理的に理解しようとするようになった。それが、ここまで占いに取り憑かれた理由だと思う。だから、どちらの信者でもない。

父の友人の死が母に伝わったことを否定するのではなく、「何が起こっていたのか」を考えれば、あり得ない話ではない。

長年、占い思考をして来た今は、こう考える・・・
人間の身体や精神にも影響を与える「何らかの力」があるとすれば、死ぬほど弱っている人は死に到り、脆弱な人は病気になる。
普通の人なら、判断ミスや不機嫌になり、世の中に事故トラブルが多発する・・・
だとすれば、父の友人が死んだ時、一方で母が苦しんでいたことは、何の不思議もない。

因縁とは、ものごとにはすべて原因と結果があるという、合理性を説くものだと思うのだが、(だから良い行いをしろと)
因縁話となると、多様な可能性を考えず、手近な知識を短絡的に結びつける合理化を言う。科学の名においてときどき、その時代の知識のみで結論を出す人がいるが、これは科学的因縁話と言える。

また頭痛
先日、4月5日の深夜また突然、頭痛になった。頭痛体験と地震の関係のことを以前書いたが、自分では信じていないから、体調不良の原因を考えながらも、『地震かな』とも考えながら寝た。翌日起きたら快調だったが、メキシコで大きな地震が起きていた。

やはり、7日の深夜、また突然、頭痛になった。5日は右前頭部だったが、今度は左後頭部だ。寝ようと思ったが、5日のこともあり、前回よりひどいので、よほどブログに書こうかなと思ったが、何しろ自分の体調だから、ディスプレーの見過ぎだろう、アホなことは書くなと思って寝たものの、こんなに痛いのはもしかして?と気になり、起きて、財布の入ったジャケットを枕元に持ってきて寝た。
起きるとすっきりウソのようだったが、スマトラで大きな地震が起きていた。

仮にもし、地震が関係あるとすれば、プレートの反対側にもストレスがかかって、その磁気?の影響を受けるのかも知れない。
実際、地震学ではどうなのか知らないが、最近多発する大地震は地球のあちこちで圧力バランスが崩れているのかも知れない。

自分としては常に、まず自分の体調と考えるが、可能性として排除しているわけでもない。しかし、宣言するようなものでもない。
とにかく、何でも、我田引水に因縁話で考えるべきではないと思っている。
言うまでもなく、昨日のUFO写真もUFOとは思っていない。

P.S.
2ヶ月後。UFO?の正体が判明した。車で撮った写真は別にあって、該当写真は、やはり、屋内のホールで写したものだった。
UFOはシーリングライト。写真だけ見ればすぐ解ることなのに、自分の記憶(ミス)があるから、思い込みで事実を直視できなくなる。
UFOの正体見たりハゲ頭