魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

感情表現

2010年04月05日 | 日記・エッセイ・コラム

木星魚座で、またまたタイで政治デモが続いている。寛容なのか過激なのか、どう考えて良いかわからない国だ。
日本でも、昔はデモが盛んだったが、近年はほとんど見られなくなった。若者の政治離れとか言われたが、結局、デモでは何も良くならないことに目覚めたからだろう。

あまり、長期にわたって見られなかったために、かえって、最近、それを経験したことがない人たちが、またデモをするようになった。

選挙制度といい、デモといい、ネットのような主張手段が無かった時代の方法であり、相当時代遅れに見える。
意見の主張に身体を張るのは、感情の主張だが、力によって意見を封じられる環境なら、やむを得ないのかも知れない。

しかし、デモというパフォーマンスをきっかけに論議を提起するという意味では、むしろ、ネット時代こそ効果的なのかも知れない。
ただ、ネット住人と、路上パフォーマンスとの意識の隔たりはどれぐらいあるのだろう。

もう十年もすれば、国民総ネット時代になる
その時の国民意識の動きがどうなるか、多少心配ではあるが、ともかく、実社会とネット社会は一体化する。
実社会は無視できない前提だから、ネット社会が逆に希薄になり、むしろ、実社会での積極行動が増えるだろう。
何事も、極まれば転ずる。

テレビ新聞とネットとの対立時代より、完全ネット時代の方が、むしろ、バランスのとれた社会コンセンサスが生まれやすくなる。
ネットが、かつてのマスコミのような単なる情報媒体となれば、現実感覚が、ネットに反映されるようになるからだ。

これまでは、ネットは、基本的に、知識と理屈の若者社会だった。
炎上とか、罵り合いの発端は、双方の単純な論理の感情的衝突だが、実社会での経験者が増えるに従い、ネットに対して引いた目で、知恵や寛容の文化が生まれてくるだろう。

街頭デモや、乱闘国会という、サル社会的感情表現から見れば、二段階は上を行く、世論形成ということになるのだが、そうなっても、議会政治は果たして必要なのだろうか。