魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

老若男女

2023年10月19日 | 日記・エッセイ・コラム

『所さんお届けモノです!』で、所さんが、お母さんから聞いた食糧難時代のお爺さん(母ちゃんの父ちゃん)の話をしていた。大勢の子供に配給の米を食べさせ、自分は釜の洗い汁をすすっていた話を聞いて泣けたと話していた。
10歳も離れてないのに、その手の話はリアルタイムで知っている。
友人の金持ちの子が、お母さんが必ず、ご飯のお釜にお茶を注いで残った米をかき集めて食べるのが恥ずかしい、と話していた。どうも、所さんのお母さんの方に近い世代らしい。
5歳と言わず、3歳違うと体験した世界が全く違う。

小学校の修学旅行では、お金ではなく米を持って行った。当時はまだ食糧難の名残があって、お金を渡しても、宿では米を調達できず、各自が自分の食い扶持を持参した。大抵は子供に持たせるのだからと、親は上等の米を持たせたが、宿では子供でも分かる安物が出た。
この話は、3~4歳違うと全く知らない。同様に、進駐軍も全く知らないと言う。もっとも我々も進駐軍の姿は憶えているが、「ギブミーチョコレート」と追っかけた歳でもなかった。

人は互いに異邦人
同じ国、同じ世界に暮らしていても、各々の体験した環境は全く違う。
世代論を否定する人もいるが、逆に何でも世代のせいにするのも早計だ。意見の違いを「世代が違うから」とか、「まだ若い」とか、「おじさんには解らない」とかで、突き放すのは単に人の話を聴かない言い訳に過ぎない。同様に、何でも感心したり迎合するのも、人から学ぶ姿勢の放棄でもある。

世代の違いは異邦人との付き合いのように、好奇心を刺激し、違いの中に同一性を発見する学びの宝庫だ。
しかし、年寄りが若い人に感心したり興味を持ったりするのは、若い頃の息吹を思い出し、若返ったような気がするからで、「エキスを吸って若返る」などと言うような、自らの息吹が枯渇している人は、二度と若返れない。「万年青年」などと言う人も既に若さを失ったコンプレックスだ。
100歳になっても精神の老けない人は、自分の歳を忘れていたり、死ぬ気が全く無い。「あと何度この桜を見られるだろう」などと言い出したら、アブナイ。

一方、若い人の中には、年寄りの心境を知りたがる人がいて、自分もその一人だったが、その歳になってみると、「三つ子の魂百まで」の一言に尽きる。基本は何も変わらない。
ただ、老人という概念に囚われ、自分自身がそこに閉じこもる、いわゆる「老人」や、若いのに年寄りぶりたがる人、逆に老人を蔑視する人など、多くの人が外見に惑わされ、年寄りだから、若いから、子供だから、病人だから、外国人だからと決めつけ、本質を見ない。
なり振り、世代の違い、国の違い、姿や形の違いの中の「人間」の本質は皆同じ。その「同じもの」が何かを知った上で、違いを発見するのが、マンウオッチングの面白さだ。


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