魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

年功智列

2014年03月29日 | 日記・エッセイ・コラム

道を歩いていると、後ろで
「あのおっさんはもう45、6やろう」
「えっ、そんなんか!?」
振り返ると、80代の夫婦が会話しながら歩いてくる。

思わず心の中で
『おまえは、なんさいや?』
と、突っ込んでしまった。

十代の若者には、年寄りの年齢がわからず、30代も50代もまとめて、「おっさん」だが、おっさんの年齢を過ぎると、自分が基準では無くなる。自分が何歳かは関係なく、そこに「おっさん」が存在する。
だから、80歳から見ても、おっさんは「おっさん」だ。

27の時に、18の若者に、「おい、おっさん」と、呼ばれて、笑ってしまった。確かに、年齢比から言えば、30歳にとっての45歳になる。
しかし、当時は青年のボーダーは30歳だと思っていたから、意表を突かれ、笑うしか無かった。

また、用品店の店頭で、70歳ぐらいの人が、コートを羽織ってみて、
「わー、おばあさんみたいやな!」と、言っていた。
申し訳ないが、また突っ込んだ
『ほんなら、誰がおばあさんや?』

儒教社会の東洋人は、欧米人に対してよく歳をきく。そして、年齢で振る舞いに気を遣う。欧米人にとっては、シワは何本ありますか、とでも問われたような、「なんで?」な質問だ。
日本は、アメリカナイズで、相当薄れたが、それでもはっきりと東洋社会だ。それに近頃は、この気風が、先輩後輩など妙な形で復活している。

東洋人は、年齢を立場関係の基準にするが、欧米人には年齢は衰えの基準になる。「女性に年はありません」は、欧米式価値観だ。
東洋人が年をきくのは、発言から着席の順まで、行動の指針にするためだが、欧米人にとっては力比べをされているようで不愉快だ。

この儒教的「年相応」の発想が、あの人ではなく、あのオッサンと呼ばしめるのだろう。兄ちゃんと呼ぶよりは、遙かに敬意を払っている。
年取って改めて思うのだが、確かに、年の功は存在する。年をとって初めて解ることもある。西欧でも、年寄りは「あなたも、年をとればわかるから」と、同じように言う。

しかし、どの立場にもそれなりの視点があり、それが対等に意見交換することは、社会発展には欠かせないことだ。
長老より神が偉い西欧では、年や立場に関係のない意見交換が当たり前で、それが民主主義を発展させた。

秩序だけを求めて、老人が権力を持つ社会は衰退する。
そして、年齢という物理的事実に従う事は、金や力に従う動物発想であり、人間の思考力を奪うものだ。


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