魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

多神政党

2015年01月10日 | 日記・エッセイ・コラム

民主党の代表選挙をやっているらしいが、全く興味がわかない。おそらく世間の人もそうだと思う。政権時の体たらくがあまりにもひどかったことで、もはや、再起の期待そのものを破壊してしまった。日本人の価値観からすれば、もう、「水に流す」対象でしかない。

日本にも二大政党をとの大義名分で、あたかも、あるべき究極の姿のような呼びかけによって、日本人は最後の選択に賭けた。それがダメだったのだから、二度目の選択は無い。

そもそも、二大政党のような弁証法的政治が日本に合っているのだろうか。
欧米式の、一つの真理に向かうありかたは、一神教だからこそ皆が信じて、そこに関われる。対立する意見は一つの真理を導く為の必然的手法だと信じているからこそ、対立を求める。

しかし、多神教的な日本のような風土では、むしろ、同じレベルの者が対立してはいけない、和をもって尊しとしなければならない。対立は上下の階層、立場の違いとして、話合うだけで、打ち負かし合うのではなく、下から助言し、上から聞き分ける。秩序ある叡智の結集であるべきだと思っている。

何だかんだと言いながらも、そのコンセンサスを守ってきたのが、55年体制の自民党対、社会党だ。互いに上下の階層を譲る気も無く、国民もそれに満足していた。
与党だけでは独走するから野党がコントロールする。その秩序が、日本人には心地よかった。ところが、バブル崩壊による、体制の行き詰まりは、日本を混乱させた。

源平合戦、南北朝の動乱、応仁の乱から戦国、明治維新・・・と、体制の行き詰まりから生まれた大乱が終わると、必ずまた、上下の秩序に落ち着いてきたのが日本だ。
敗戦後の新秩序が55年体制であり、経済崩壊で90年代の政治混乱が生まれた。
大乱期には二転三転するが、必ずまた上下の秩序に収斂するだろう。

多神教による混乱を、二層に別けて秩序をつくるのは、ある意味で日本人が歴史の中で生み出した方法であり、この逆に、複層を廃して徹底的に一元化するのが中国式だ。
また、多神教が衝突し合って自己収斂せずに、分解するのが朝鮮式だ。
こうなったのは、日本が島国で外からの介入がなかったからであり、中国は大きすぎて、理解し合って秩序を創るゆとりが無かったからであり、朝鮮半島は常に外部から介入されてきたからだろう。

日本が基本的には多神教の国であることの表れが、乱立野党であり、体制が落ち着くまでは、まとまることは無いだろうし、信頼に足る強力な与党が出来れば、昔の社会党のような二層の一翼を担う野党に収斂するのだろう。

 


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