魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

次の時代

2020年10月18日 | 大転換
国勢調査の回答が半数にもならないという見出しを目にした。オーバーな気もするが、東京などを思えば、本当なのかもしれない。
日本はデジタル化に周回遅れだ。時代に付いて行くためには、時代の先を行くつもりでなければ追いつけない。オンライン投票などから始めても良いかも知れない。

今どき、庚午年籍でもあるまいに、全戸の国勢調査など、必要があるのだろうか。AIによるビッグデータ解析なら、ウソ申告よりもはるかに正確な行政資料になる。中国のような監視社会でなくても、あらゆる方法で実勢調査はできる。
デジタル化の第一歩は、ハンコやマイナンバーではなく、発想の転換だ。物ではなく、どういう社会をイメージするかの問題だ。
それとも、古代律令のように、共産党人民監視システムを、ありがたく導入したほうが良いのだろうか。

コロナは引き金
コロナは、病気そのものが怖いのではない。怖い病気はいくらでもある。
「コロナだッ!」の、叫びが引き起こしたパニックの方が怖いのだ。コロナパニックが、産業革命パラダイムの楼閣を打ち崩した。生産消費の伸びきった戦線が、コロナを引き金に、将棋崩しのように、一瞬で崩れてしまったのだ。
大転換の門は開かれた。今や、崩れたものを再び積み上げる時ではない。全てはゼロから始まる。
幸か不幸か、全世界が同じスタート地点に立った。習近平もこれをチャンスと見て先進国を出し抜こうとしている。デジタル化に周回遅れの日本も、千載一遇の挽回チャンスに恵まれたのだ。

全員が一から始めるなら、失うものの無い者が勝ちだが、
日本は、高度成長の遺産が足かせになり、大借金とデジタル化の遅れを招いた。今こそ、終戦直後の焼野原に立ち返り、前例や成功体験の夢から覚めなければならない。
先ず、政治に必要なのは、ビジョンの提示だ。
細かいことはどうでも良い。これから、どんな社会にするのか、可能性に満ちたイメージを映し出し、国民の意思統一を図れば、みなが前を向く。それが無いから混乱が起きる。
「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」と、諭してもらったほうが良いのかもしれない。

新時代プロローグ
明治に生まれた19世紀の社会システムに固執する日本だが、その師である欧米は、既に変り始めている。
今や、「製造と消費」の産業革命パラダイム250年が終わり、「情報と納得」の時代が始まろうとしている。
ハンコ廃止騒動もその一つだ。日本のハンコ偏重は江戸の経済発展の名残で、明治政府もこれを廃止できず、印鑑証明制度まで生まれた。産業革命250年の、日本なりの歩みであり、時代の象徴でもあった。

ハンコが消える一方で、個人の認証技術はますます発達する。もしかすれば、認証の必要さえなくなるかもしれない。今後のデジタル発展で、あまりにもプライバシーが無くなれば、かえって、個を特定する必要が無くなる。
国家共同体にとって最も重要な徴税も、個々の所得から徴収する発想そのものが無くなるかもしれないからだ。
例えば、ベーシックインカムと消費税100%のようなシステムであれば、個別徴税の必要が無い。個々の儲けの上前ではなく、総生産の剰余から共同体運営を賄う社会なら、個人を特定する必要が無い。納税申告のような無駄な徒労も要らなくなる。

どんな未来であれ、郵便や印刷、学校や役所など、これまで当たり前と思い込んでいたものを、一度、無いものとして考えなければ始まらない。
投票所に行く選挙、郵便やハンコによる証明、人集めの式典・・・そして、通貨。こんなものは、すべて、「物」が前提になっている。
これからは、「在る」ことさえ認識できれば、それで良い時代になる。つまり、いかに「納得」できるかが重要になる。形で確認する前提を、捨てなければならない。
断捨離の流行も、シェアブームも、そのプロローグだ。「物」の世界との別れに、みな慣れようとしているのだ。

この半世紀、次の時代への舞台装置が次々と生まれてきた。DNAの発見、共生の認識、情報化社会・・・など、アイデンティティの根拠が大きく崩れていった。これは、進化論に匹敵する認識の革命だ。
われわれの存在理由が、個ではない、類やガイアの概念で捉えられるものであることが、高等教育とともに世界的に広まって、ジェンダーや、物質文明への批判が高まっていた。そこに起こったのが、コロナショックだ。
機は熟していた。小さな針の一突きで、250年の産業革命パラダイムの夢が吹き飛んだ。
幕が上がったのだ。

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