転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



昨日からツイッターのTL上で、土地の境界の話題が出て、
私はつい、ひとりで勝手に(笑)盛り上がってしまった。最初に友人が、
『分譲後に国が行った測量が間違っていたことにこれまで気づかず、
どうやら市道の分まで固定資産税を払わされていたようだ』
という意味合いのことを書いていたので、私は実家の過去のいろいろが頭に浮かび、
まったく土地の境界は厄介なものだな、と久しぶりに思い出したのだ。

実家は、現代の秘境に建つ築100年を超えるオバケ屋敷なのだが、
その境界に関して、東西南北のうち東以外全部で、長年、揉めて来た。
それはもう、田舎ならではの、実に様々な出来事があった。
ちなみに、唯一、東が問題になったことがないのは、
うちの東隣は民家ではなく県道が通っているからだ。

まず、北側は、よその家の畑で、そのずっとむこうに別の家があるのだが、
この「別の家」はうちの隣人ではあっても、うちの北側の畑の所有者ではない。
畑は、さらにうんと川を北上した、我が家からは見えないところに建っている、
大きな平屋の人のものなのだ。
その人(の先代だ、今となっては)があるとき、何を思ったか、
「境界は昔はここじゃあなかったで。あんたの宅地の近くまで全部うちのもんじゃった」
と文句を言いに来た。

当時存命だったパンスーの祖母も、この家で生まれ育った父も、怒って否定したが、
登記地図は明治6年に完成したとかいう「団子図」(正式には「野取絵図」?)のままで、
ろくに境界など読み取れなかった。
そもそもの昔、どこが境界で、それが今に至るも守られているのかいないのかを
書面で確認することなど不可能だった。
それで近所の人の記憶に頼ることになったのだが、
そこで得られた、付近に住む某おばーさん(当時85歳)の証言というのが、
「この通りじゃったよ昔から。だってうち、里帰りのたびに、戻るとき泣けてねえ、
この里道の、このへんに腰掛けちゃあ、長い間、泣きよったけ。よう忘れんよ」。

次に南側は、隣家の宅地(その家の庭の北端)との間に、細い道がついているのだが、
三十年ほど前、ここを救急車が入れる幅に広げてはどうかという話が、村の寄り合いで出たとき、
うちの先代とは古くから犬猿の仲だった某おじーさんが、
「おまえの家から土地出しゃ済むことじゃ」
と言いに来た。
このおじーさんは、うちの向かい側の家の人の末娘が嫁入った家の舅だった。
というか向かい側の家というのも、うちの二代前の誰かが嫁入った家で、
つまるところ、うちとは他人ではなかったのだが(汗)。
なんしろ狭い村なので、たどれば結局、皆どこかで親戚だったりするのだった(汗)。

隣り合った家同士が半々ずつ出すという話ならまだしも、うちにだけ出せとは何じゃ、
そんなもん単なる嫌がらせじゃ、
とその時点で既に代替わりして当主になっていた父が怒り、揉めた。
某おじーさんはこの後、十数年間これを言い募り、たびたびうちにも来て、
その都度、父がゼンソク発作を起こすほど激怒しつつ追い払い続け、
誰だかの知り合いの市会議員を呼んで来るの来ないの、という話に幾度もなったが、
最終的に、先方が十なん年か前に86歳で彼岸へ行かれ、問題はついに立ち消えになった。
そこまでの経緯をどういうふうに理解していたか知らないが、うちの向かいの家はその後、
息子さんの代になり、庭の北半分つまり境界ぎりぎりのところまで使って、借家を建てた。
だから相変わらず、家の前の道は、救急車など到底、通れない狭さのままだ。

一方、西側は、実は宅地より外には土地がそもそもほとんど存在しなかった。
私が物心ついた頃には、既にかなり大きな川が我が家の真横を流れていた。
ところが、なぜか我が家は、この川の真ん中あたりまで宅地があることに
書類上だけ、なっていて、その固定資産税を、知らずにずっと払っていた。
記録をさかのぼると、どうやらこの川は昔もっと狭くて、
雨が降るたびに氾濫したので、うちの先代が宅地を提供して、
川幅を倍くらいに広げる工事が行われ、今の状態になった、ということがわかった。
しかし登記簿上そのときの訂正が、父が相続した段階でも、なぜかなされていなかった。
お陰で我が家は、これに気づくまで、川のぶんまで何十年も税金を払い続けていたのだった。
この件だけは、測量すればはっきりしたので、今は納税金額は訂正されているが、
長々と払い続けていたぶんは、直前何年かの分しか戻らなかった(涙)。

前に、裁判所の民事部で書記官をしている知人に訊いたら、
「地方じゃ、訴訟は相続問題が多いですね。あとは土地の境界。こればっかり」
という返事だったので、実家のあたりはそういう意味では、ごく普通だったのだろうし、
確かに、揉めていたのは我が家だけの話ではなかった(汗)。
誰某と誰某は、裏の山のことでもう二十年も揉めとんじゃけ、とか、
あの家じゃあ、次男がこすい(ズルい)け、全部取ったんじゃ、等々の話は珍しくなかった。
また我が家にしても、「土地返せや」と言われるばかりの立場ではなかったようで、
パンスーの祖母など、さすがに外に言いに行きはしないにしても、
「○○の田んぼは、もとはうちのじゃったのに、騙し取られた」式のことを
晩ご飯のときに、ときどき話題にしていたものだった。

尤も最近では、さほど境界の話でけんかをすることは無くなったようだ。
昔の人にとっては「土地はお宝」で、1㎡でも人より多く持っているほど良かったわけだが、
息子や孫になると、狭い畑程度の土地に余分な税金を払いたくないからか、
「うちの土地だった」的な申し入れをよその家にしに行くことは、もうあまりないようだ。
何より、下の世代になるほど、途中で都会に出てしまって、もうこの土地に住んでいない人も多い。
だから、言い出しっぺの当事者が皆あの世に行ったら、境界の揉め事はほぼ自然消滅するようだ。
良いんだか悪いんだか(苦笑)。

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