転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



『茶々』の感想をUPしようとするとブログが白紙になる事態が二度続き、
とうとう、書かないうちに『CHICAGO』が来てしまった。

映画を見終わった直後のようなテンションではもう書けないが、
要するに私が『茶々』で印象に残ったことは、

・たかこ(和央ようか)さんの、良い意味での、表情の硬さ
・映画の、前半と後半での、私側のテンションの差
・少女時代から大人であることを強いられた茶々が、
 最後に辿り着いたのは、母親の腕の中だったというラスト

の三点だった。

たかこさんという人は、飽くまで私の観察の中ではだが、
男役だった頃から、表情の硬い人だった。
もちろん、舞台での感情表現は充分にあったのだが、
それでも、私が宝塚のほかの生徒さんから感じていたような、
情感の豊かさとか熱さ、細やかさなどが、
たかこさんからはあまり感じられなかった。
そのことを、『茶々』を見ていて改めて思い出したのだ。

でも今回に関しては、その表情の硬さが、逆に茶々姫には
似合っていたと思ったし、私にはなかなか面白かった。
子役の茶々から既にそれは始まっていて、
茶々は娘時代から、何を見ても、キっと口許を結んで、
表情を動かさない子供だった。
二度の落城や両親の死、不条理な戦を目の当たりにして育った茶々は、
心を閉ざした娘に成長したのも無理からぬことと思われた。

幼かったぶんだけ、おはつや小督は、弱くはあったが、
一方で茶々ほどには、情緒的な世界を損なわれることがなかった。
「姉様」だけが「鬼」になった理由は、
茶々が最初から、浅井家の長姉としての立場を理解していたことや、
落城のとき既に茶々が思春期であったことだったと、見ていて思った。

そうした茶々の前半生、およそ秀吉が亡くなるあたりまでは、
観客としての私はかなり楽しめた。
「た、たかこさんが、時代劇に~~~!!」
というファンゆえの根本的な動揺はあったが(爆)、
映画前半の茶々は、ひとりの少女が秀吉の側室となり、
女の才覚だけで生きていかなければならなかった過程が、
私には、茶々の硬い表情と相まって、新鮮なものに思えた。

初めて聚楽第に到着したとき、門から茶々が、供の者も連れずに
ただゆっくりと自分の足取りで歩いて城内に入っていく様は、
これから少女時代に別れを告げ、秀吉の側室のひとりとして、
たったひとりで人生に立ち向かって行かねばならないことの
象徴のように思われた。
彼女の前には文字通り大きな扉が開かれたのだ。

茶々はもはや、そのようなことにひるむ感傷は持たなかった。
大切だった人々がある日たやすく死んでしまう日常、
信じていたものが一瞬で瓦解する日々を、
彼女は既にいやというほど体験していたからだ。
無表情なまでの茶々に、大らかな愛情で接した秀吉は、
やがて、彼女の素直な表情を引きだすようになり、
茶々は秀吉に対して、次第に微笑みを見せ始め、
秀吉の晩年には母性さえ発揮するようになる。
ここまでの茶々は、私の目にはひとりの女性の前半生として、
とても面白く映った。

だが後半、一転して茶々が、鎧を身につけ、馬を駆って、
家康との会見に現れたところで、私のテンションは一気に下がった。
男役のファンとして、彼女の良さがこうした颯爽とした姿にある、
ということはよくよくわかるのだが、
少なくとも私は、この流れで見たい展開ではなかった。
飽くまで脚本・演出に対する違和感なのだが、
なんとかして、元・男役を起用したからこその場面を成功させたい、
という意図かサービスかわからないが、そのようなものが感じられ、
私には前半の物語と咬み合わない、異質なものに見えてしまった。

ただ、たかこさんのは面白い演じ方だったとは思った。
私は昔、彼女の舞台姿を見て「男役でなくて男装芸」と不満だったが、
今回の乗馬姿は、それらとはまた違う、「女優の男装」だった。
あれは男のような鎧を懸命に着た茶々であり、女性であったと思った。
「女性が、男性の格好をする」という設定でも、
これだけいろいろと、演技的方法があったということ、
それを、男役時代から通じて、グラデーションみたいに
ひとりの役者から見せて貰えたことが私には本当に興味深かった。

さて、和央ようか、といえば「宝塚一のマザコン役者」、
と私は以前からずっと思っていて、
『ファントム』のエリックがその最たるものだったが、
ほかにも『嵐が丘』のヒースとか、『エリザベート』のフランツとか、
隠し味的には『ホテルステラマリス』のビルとか、
とにかく、「ママへの、一筋縄でいかない思い」を演じさせたら、
たかこさんの右に出るものはなかろう、と私は前々から感じていた。

幼い頃から、強い表情の下にすべてを隠してきた茶々が、
人生の最後に見たものは、これまでに愛した人たちの姿で、
時をさかのぼりながら、ひとりひとり、懐かしい人の姿を追い、
最後に彼女が自分からその名を呼んだ相手は、母親だった。
女としての茶々が愛した秀吉でもなく、命がけで守った秀頼でもなく、
茶々は、自分を抱きしめてくれる温かい母親こそを最後に求めたのだ。
お市の方が、娘達に命を託して自害したことに無言でならい、
茶々もまた、妻として母としての人生を全うしたのだということが、
最後に、感じられた。

そこまでの硬い表情とは正反対に、茶々は、
お市に抱かれて初めて子供のように泣くのだった。
少女時代から通して、そのような茶々の表情はここだけだった。

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和央ようかブロードウェーデビュー!「CHICAGO」主演決定(サンスポ)
『【ニューヨーク12日(日本時間13日)=箱崎宏子】宝塚歌劇団元宙組トップスターの女優、和央ようか(39)が“ブロードウェーデビュー”を飾った。10月に東京・赤坂ACTシアターで開幕するミュージカル「CHICAGO」にヴェルマ・ケリー役で主演することが決まり、現地公演のカーテンコールに登場した。日本人キャストが本場の舞台で紹介されるのは史上初。一昨年の退団後、初のミュージカルに挑む和央は「(本場に)負けないよう頑張ります」と成功を誓った。』

東映の時代劇のあとに、ブロードウェイ・ミュージカルとは、
本当に、退団したからこその面白さだと思った。

それにしても、改めて、たかこさんの背の高さにビックリ(殴)。

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