転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



暑さと忙しさと己のテクニック不足ゆえに『テレーゼ』を敬遠し、
このところクーラウのソナチネ作品20-3を弾いているのだが、
クーラウはなかなかベートーヴェンっぽいではないかと、
弾けば弾くほど感じるようになり、愉快になってきた(笑)。

クーラウについて、不勉強な私は全く何も知らないに等しいのだが、
1786年生まれのクーラウはベートーヴェンより16歳若いので、
時代感覚は大なり小なり共有していただろうし、
音楽家としての活動時期も重なっている部分がかなりあり、
おそらく、ベートーヴェンの活躍ぶりやその作品のことは、
常にクーラウの意識の中にあったのではないかと
私は勝手に楽しく想像している。

私の弾いている作品20-3を練習する人は多くないと思うが、
同じ作品20でも第1番は、ソナチネアルバムを勉強する人なら、
ほぼ全員が必ず弾く曲だろう。
この曲にもベートーヴェンみたいな箇所がいくつかあるので、
クーラウの作風の何を私が笑っているか(爆)
おわかり頂けるのではないかと思う。
Kuhlau: Sonatine No.1 in C-Dur Op.20-1(YouTube)

例えば、第1楽章の13小節目、動画でいうと0:21のあたりで出て来る、
無駄にドラマティックなハ短調アルペジオ(^_^;、
こういうコンセプトはベートーヴェンでも大いにあり得そうな気がしませんか。
しかし、この三連符でいきなり怒濤の何かが沸き上がり、
……そうになった割には、結局それ以上何も起こらないで、
しゅるーと第2主題に入ってしまうところが、惜しいのだ、クーラウ教授。
これじゃただの、こけおどしで終わってるみたいじゃありませんか(爆)。

展開部の途中、39小節目あたりから再度ハ短調になり、
スケールで畳みかけて行くところなんかも実に格好イイのだが、
忙しく動き回ったあと再現部につながると、私は途端につまらなくなってしまう。
めくるめくようなスケールから、可愛らしい第1主題に流れ込むかたちで
主題が再現されるのは、モーツァルトにもある手法だが、
しかしこれはモノが違うよな、という残念さを、私は否定することができない。
いずれも、斬新な何かを思い切って振り上げたところまでは良かったのに、
そのあとに、聴く者をオオ!と唸らせる着地点を与えることが
できてないような気がするんですが気のせいですか(逃!)。

私の弾いている作品20の第3番第1楽章にしても
Kuhlau Sonatinas No.3 F-dur Op.20-3他(YouTube))
こういう小規模なソナチネにしては頑張り過ぎというか、
意欲的にあれこれ試みすぎた面があるのではないかという気がしてならない。
もしかしたら、クーラウ教授はもっと大きなソナタとか舞台音楽とか、
このとき既に別の構想があって、アイディアの数々をそこで活かすため、
このソナチネは習作として作曲したのかもしれない。
そう考えなかったら、37小節目からの摩訶不思議な分散和音なんてもう、
一体全体、どうして出てきたのか何がしたかったのか、不明です(爆)。

何調が何調になり、これから何調になりに行くのか、
捕らえる暇もないほど入り組んだ和声の進行ののち
(先生に伺ったところ、ナポリの和音というものが試されているそうだ)、
41小節目から展開部に入るのだが、このあとも調性が定まらず、
うにょうにょと展開して、結局、69小節目からもう再現部。
弾き手としての私は、随所で盛り上がりかけては、落とされることの繰り返しだ。
何かこう、すべてが寸足らずというか、えらく野心的に取りかかった割には、
どれもこれも実らないうちに、サクサクとお片付けの時間が来てしまう(^_^;。
ベートーヴェンにも、和声進行には個性的な試行錯誤の跡が見えるが
(何かというと減7度多用とか・爆)、それにしても100小節余りを費やした以上、
ベートーヴェンなら、初級ソナチネと言えどもう少し何とかなったのではないか、
と思うのは、私がベトベン好きだからなのか(汗)。

……と、笑ってはいるが、私は実のところクーラウを大いに敬愛している。
子供の頃にソナチネアルバムを貰ったとき、最初に学習したのは、
クーラウの作品55-1のソナチネで、私はいたくこれが気に入った。
初級曲ながら華やかさがあり、リズムも斬新で、かつ端正な構成になっており、
私はこの曲を弾いていると爽快で、しばらくは毎日の練習の終わりに、
必ずこのソナチネを第二楽章まで通して弾いて、悦に入っていたものだった。
Kuhlau: Sonatine no.4 in C-Dur Op.55-1(YouTube)

そのあと、クレメンティの作品36の1~4をやったが、
次に私がソナチネアルバムで心打たれたのは、クーラウの作品55-3だった。
小学校の高学年か中学生くらいの頃のことだから、語彙も知識もなく、ただ、
「なんてキモちいい曲なんだろう!」
と思っただけだったのだが、それからは作品55-3が第二のお気に入りになった。
Kuhlau: Sonatine no.6 in C-Dur Op.55-3(YouTube)

作曲者が誰で、どういう時代背景の作品で何が表現されているかなど、
学習開始時に確認されても興味がなく(殴)ほとんど頓着していなかったので、
子供の私は、ただ単純に、曲としてクーラウの作風が好きだったのだ。
いわばクーラウは、私にとってソナタ形式の原体験というべきものだった。
今回も、ソナチネアルバムで残っている曲をやるとなったとき、
私は真っ先に、クーラウの作品20-3と20-2のことを考えた。
これらは、是非決着をつけたい二曲として長らく私の記憶にあったからだ。
この年になってこういう機会に恵まれたことに感謝し、
クーラウ教授の作品を愛でつつ、その向こうに垣間見えるベトベン先生の姿も、
確認してみたいと思う、きょうこのごろです(笑)。

Trackback ( 0 )