転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



監獄見学から戻ると、網走市内は地元の網走神社のお祭りで賑わっていた。
自称・鯛焼きソムリエの娘(笑)が、鯛焼きを食したいというので
露店を冷やかしながら商店街をずっと歩いてみた。
なかなか賑やかなお祭りだった。

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ホテルに戻り、温泉で一日の疲れを癒やし、
カニ料理の夕食を楽しんだあとは、夜の娯楽の時間だ。
主婦には家事の一切無い時間こそが、コタエられない旅の楽しみだったりする(^^)。

まずはロビーで、オホーツク語り部の会。
『オホーツクの漁』『原野の草花』『開拓時代とアイヌ』、
など、このホテルでは毎晩様々な話題にまたがって、小一時間ほど
地元の方や研究者の方々のお話が聴けることになっている。
私の聴いた回は、10人ほどの宿泊客の集まった会で、
テーマは『網走と刑務所』(←きょうの見学内容にぴったりだった)。

そのあとはロビー隣接の小さなホールで
Ms. ビビアンによるハープのリサイタル。
語り部のほうは私しか参加しなかったが、
ハープは娘も聴くというので、二人でホールに行った。
主人は部屋でくつろぎながら、読書とテレビ(笑)。

耳慣れた有名曲中心の楽しい音楽会だった。
日頃、ハープを聴く機会は少ないので
知っている曲でもハープ版だとまた新鮮に聞こえ
ハープの音色とテクニックの面白さを感じた。

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(最初の写真は、私たちが乗ってきた各停・普通列車)

網走から網走湖を右手に見ながら走り、
呼人は隣の駅なのに結構遠かった。
呼人は無人駅で、小さな待合室にストーブ(夏季は使用されていない)がひとつ。
旅番組に出てきそうな、鄙びた駅だった。



私たちが下車したすぐあと、網走に向かう特急オホーツクが
この駅を通過して行った。
時刻表でだけ、その名を知っていた特急オホーツクを
初めて実際に見た(笑)。

私の人生で、さすがに呼人駅に今後また来る機会は無いだろうね。

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網走監獄から路線バスで網走駅まで戻って来て、
宿泊先のホテル最寄りの呼人(よびと)駅まではJR。
車を運転しない我々は、こうしていつでもどこでも、
公共交通機関を利用するのみだ(^_^;。

網走駅から呼人駅までは一駅なのだが、
距離があるせいか、列車の本数が限られるせいか、大人ひとり230円。
駅は自動改札などではなく、駅員さんにスタンプを押して貰う形式だ。

車両は、広島のバスや市電のように料金表と料金箱が設置されている、
一両のみのワンマンカー。
電車はだいたい一時間に一本。
滞在中、JR網走駅にはこれでもう数回は来たことになるが、
いつも何人かの人が、ゆっくりと待合室でテレビを眺めながら待っている。
こういうところにいると、
「2分待てば次の電車が来るのに、無理して駆け込んで
ドアに挟まれている東京の人って、一体、何をしているのか」
という某・地方出身者の感想は、全く正しいと思うね(^_^;。

ときに、ニュースを見ていると西日本はずっと雨の話ばかりで、
被害も非常に大きかったことが感じられるのだが、きょうの網走は晴天だ。
日本は小さな国なのに、道東にいると、夏や台風の実感など無い。
日に当たるとやや暑いが、広島ならこれは4月上旬くらいの感じだろうか。
長袖ブラウス+カーディガンでちょうど良い。
とても爽やかで良い天気。

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読み間違えて『休憩所』と口に出している見学者が何人もあったが、
ここは『休泊所』、「動く監獄」として恐れられた小屋の再現だ。

明治時代、外役作業の際に受刑者たちが使用した仮設の施設で、
工事の進行に伴って、建てては移動の繰り返しだったそうだ。
こうした休泊所は、のちに戦前の北海道のタコ部屋のモデルともなった。

札幌―網走を結ぶ中央道路の建設には、明治24年の春から晩秋にかけて、
1,000人以上の受刑者が投入され、その工事中に少なくとも200名が命を落とした、
と言われている。
非人道的な労働条件のほか、過酷な気象状況や劣悪な食糧事情も、
彼らの心身を短期に著しく損なう要因となったと考えられている。
開拓事業は、多くの犠牲の上に成り立ったものだった。


……しかし娘の感想はまた別のところにあり、
「竪穴式住居って、普遍的・基本的なもんなんだねぇ」

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看守が家族で住んだという官舎の再現。
我が家も長いこと官舎暮らしだったので、感情移入した。
奥さんと小さい子ふたりがいる一家4人で1K、
しかも風呂は五右衛門風呂で屋外にあった(冬はどうしてたんだ??)。

「次の任地、網走になった」
と夫から告げられた日、
この若い妻(←やたらと長身)の衝撃は、いかばかりであったことか。

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1日の労働が終わり、温かなひとときの楽しみ、
……には、なかなか迫力が(笑)。

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根気よく揺すり続けて鉄格子を外したのち、
自分の関節を脱臼させて監視窓をくぐり抜ける、
という方法で脱獄したヒトがいたという現場。

やったのは、今も天井付近でマネキンになっている、
『昭和の脱獄王』こと白鳥由栄(しらとり よしえ)。

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幾多の脱獄の伝説があり、
天井付近には、その姿を今に留めているヒトが(笑)。

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五翼放射状平屋舎房は、この形式としては世界最古の木造舎房だ。
完全なかたちで保存されており、国指定の登録有形文化財に認定されている。

零下三十度にもなる網走での監獄の独房暮らしは、
廊下にストーブが設置されてはいても氷点下、
涙も凍り付く冷たさで、顔も手足もこすり続けていないとすぐに凍傷になった、
……と聞いただけで、剥離骨折跡が疼いてうずくまりたくなる私であった。

「刑務所は、冬 行くとこやおまへん」
と、関東で服役した花柳幻舟でさえ、かつて言っていたよなあ(汗)。
(@『花柳幻舟獄中記』)

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本日は網走刑務所で反省、
…ではなく網走監獄博物館を見学。

「刑務所」という語彙は明治時代には無く、「集治監(しゅうじかん)」といった。
網走のそれは、中でも凶悪犯と政治犯のための特別な強制収容所として機能し、
日本全国から集められた終身刑や長期懲役の受刑者が、
道路建設や河川工事等、過酷な肉体労働に従事させられた。
その後「網走監獄」の名称となり、作業内容もかつての強制労働ではなく、
次第に大規模な農園経営へと移って行った。
現存している「網走監獄」は、もとの場所からここへ移築保存されたもので、
歴史的建造物や多数の資料を所有する博物館となっている。



ちなみに網走刑務所そのものはここから少し離れた場所で、
既に建て替えられ、現在は執行刑期10年以下の受刑者を収容している。
網走監獄博物館内には、現在の「単独室」「共同室」等の再現模型も展示されている。

網走監獄時代までとは異なり、現・刑務所は冷暖房完備、
栄養バランスの良い食事が三食あり、制限つきながらテレビ視聴も可、
……という意味では大変健康的な生活が保障されているとのことだ。

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