転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



きょうは、終戦の日だった。
両親は昭和20年には、それぞれ旧制中学・女学校を卒業する少し前だったので、
実体験としての戦争を語ることは、ある程度できる筈なのだが、
どちらもあまり積極的に話してくれたことはない。

母に言わせると、あの時代に実際に暮らしていた自分でも、
今となっては感覚的に懸け離れてしまったものを感じるのだから、
戦後生まれの人達に、戦時中のことをわかってもらうのは、
ほとんど無理なのではないか、ということだった。
若い世代が、思想的なことに絡めて、
「怖い!まるで戦前(戦時中)のよう!」などと簡単に言うのを聞くと、
母は正直なところ、失笑を禁じ得ないとのことだ(汗)。

これまで何かの機会に聞いた母の話の中で、
私の印象に残っていることのひとつは、
何年も戦争が続いていると感覚が平時とは全く違ってしまい、
焼けた人がそこらじゅうに倒れていても、それが日常だったので、
恐怖を感じたり動揺したりすることはなかった、という件だ。
また、空襲警報で夜中に幾度起こされようとも、不眠症になどならなかった、
とも、母は言っていた。
「道ばたで人が死んどぅから言うて、腰抜かすほど怖がったり、
夜、悩んで寝られへんとか言えるほどの余裕は、あの頃は全然なかった」
と母は言っていた。
きょう生きているか死んでいるか、という究極の二択の日々だったので、
その途中の複雑なことや繊細なことは全部、飛んでいたのだそうだ。

終戦時16歳だった母は、玉音放送を生で聴いたという話を以前していた
(15歳だった父も聴いた筈だが、その話をして貰ったことはないように思う)。
女学生だった母には、当日のラジオは雑音が多く内容の把握は難しかったが、
断片的に聴き取れた部分から、戦争が終わったことだけはわかったそうだ。
しかしそれからもまだ空襲警報が鳴り、B29がやってきて、
その都度防空壕に逃げながら、
「戦争は終わったんと違うん?」
と、状況がよくわからないまま何日かが過ぎた。
そして、それらがひととおり収まってからも、周辺では当分の間、
ものが無い・飢えている・省線が込んでいる・家がない・誰某が行方不明、
等々の、戦後の窮乏と混乱を絵に描いたような日々が続いたということだ。

神戸は、神戸大空襲のほかにも100回を超える空襲を受けているので、
母本人は、原爆と違って空襲の被害者に対する補償が不十分だったことを
今も不公平と感じているようだ。
しかし母がそれを言うと、被爆者の父は抗弁せずに沈黙するので、
我が家では、この件での議論が成立したことはない(汗)。

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