転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



小倉千加子『宙飛ぶ教室』の単行本は、私にとって、
かなり、読みにくい本だった、ということを昨日書いたが、
一方で、私の生活実感に照らし合わせて、「全く、仰る通り!」
とヒザを打ってしまうような記述がたくさんあったことも本当だ。

特に、氏が幼稚園や保育園で実際に接して来られた情景をもとに、
子育てに関して記述なさっている箇所には、ほぼ全面的に賛成だ。
例によって、なぜ保育園のお仕事に関わられることになったのか、
経緯は、ほとんど説明されないままで文章が展開されているので、
細かい事情は不問にするか、読者のほうで調べるかしかないのだが、
それでも、氏の書かれている育児の風景とその解釈に関しては、
私は随所でかなり説得されたのだ。

氏の友人の編集者が、お酒を飲みながら、
「自分にもし子どもがいたら、寝るのは0時を過ぎるだろうが、
そのために保育園で眠いなら、朝から寝かせておいてくれたらいい。
みんなと一緒にする遊びができなくても、字も絵も習わなくても、
親の私がいいと言うのだから、それでいい。子どもは勝手に育ちます」
という主旨のことを言われたのに対して、小倉氏は、
「子どもは勝手になど絶対に育ちません。教育をしたり、躾をしたりする保育者がいるから育つのです」
「子どもが寝たい時に寝て起きたい時に起きて、それでは学校に行くとじっと椅子になど座ってられませんよ」
「(仮に親のほうの仕事が犠牲になるとしても)自分の生活に子どもを合わせるのではなく、子どもの生活に自分を合わせるんです」
と極めてまっとうな(!)反論をしていらっしゃるのだ。

何よりも、
「個性というのは、そんなものはないという圧力に抗して出てくるからこそ個性なのであって、最初から尊重されるようなものではない」
というところに、私は全面的に同意する。
躾さえ控えてそっと守られなければ損なわれてしまうとか、
キヲツケ!礼!を強要される生活をした程度で
簡単に壊れてしまったりするようなものは、
単なる「気まま」とか「ワガママ」レベルのものではないか。
仮にも個性と呼べるのは、そんなヤワなものではなくて、
頭ごなしに否定されようが、カタにハメられようが、矯正されようが、
その都度「違う!」と頭をもたげて来るほどに強固なものだと思う。
言葉は悪いがある程度の「管理教育」があって初めて、
そこにおさまりきらないものとしての「個性」が認識されるのだ。
「個性を伸ばす教育」は、その段階を経たあとから始めればいい、
と私は思っている。

ただ、
「自分の子どもが理想の子どもではなかったということに耐えられないと子どもは育てられないと思う。子どもが理想を裏切り始めるのは、とても早い時期からである」
という箇所は、これまたその通りであると思うのだが、
「我慢強い人しか親になってはいけないし、結婚もしてはいけない」
という小倉氏の主張には、私は半分しか同意しない。

私は、若い頃、我慢強くもなければ、子供好きでもなかった。
夫や舅姑に「尽くす」生活なんて考えただけでゾっとしたし、
列車やレストランで騒ぐ乳幼児なんか寒気がするほど嫌いだった。
十代の終わりに一人暮らしを初めて以来、
私の生活の中心は長い間、自分自身であったので、
私は人並み外れて協調性のない人間であり、
人のペースに自分のほうが合わせることなど、考えられなかった。

だが、ひょんなことから(爆)結婚して、それが変わったのだ。
勿論、完全に別人になったとは到底言えないので、
世の中の立派な奥様方やお母様方に較べたら、
今も、まだまだ忍耐力の足りない部類だとは思うが、
現在の私は、二十代の頃だったら「絶対いや」と思った生活を
自ら選択して、している。
やってみないとわからないことは、多いのだ。
最初から「私は我慢強くないので親にならない。結婚しない」
と自分で決めてしまうとしたら、選択肢をひとつ減らすことになり、
それは結構、勿体ないのではと私は思っている。

自分に関して言えば、「子どもは、自分の理想の通りではない」、
のは間違いなくその通りだと言えるが、だからと言って、
育児が、落胆と怒りと失望と忍耐と苦痛に満ちたものだったか、
というと、それはまた全然違った。
若い頃の私の頭で考えた以上の苦労があったのは本当だが、
同時に、全く想像すらできなかったほどの大きな幸福が、
私にとっての育児には、多々あったし、
今後も、もしかしたらあるのではないか、と思っている。

Trackback ( 0 )