転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



昨日はライブ配信で、雪組全国ツアー版『ヴェネチアの紋章』を観た。
1991年の、花組大浦みずき(なーちゃん)の退団公演となった芝居の再演。
併演は『ル・ポァゾン 愛の媚薬』で、これまた、
なーちゃん同期の剣幸(ウタコさん)が90年に月組で主演したショーで、
私のような「この道30年超」のオバ(あ)さんファンには
コタエられない演目設定だった。

しかし、『ヴェネチア――』については観てビックリしたのだが、
台詞や歌詞がほぼ初演通りだったにもかかわらず、
謝珠栄による新演出となって、結末を含む何カ所かが全く別のものとなり、
更に、全編通して、音楽が一新されていたのだった。
主人公コンビが踊りで魅せる『モレッカ』の場面だけ、
初演同様、チャイコフスキー『イタリア奇想曲』が使われていたのだが、
そのほかは、主題歌も劇中歌も知っている旋律がひとつもなく、
玉麻尚一による全曲書き下ろしであった。

新生雪組の初々しいトップコンビ彩風咲奈×朝月希和の持ち味を思えば、
この作品が新しいかたちで生まれ変わったこと自体は、
とても良かったと私は思っている。
脚本的にも、初演時にわかりにくかったところが丁寧に改善されていたし、
新しくなった楽曲はどれも洗練されており、演出の変更点も含めて、
全体に「今どき」の感性に合ったものになっていたと思った。

何より私にとって大きな変化だと感じられたのが、
今回の『ヴェネチア――』が首尾一貫した悲恋ものになっていたことだった。
主人公アルヴィーゼが破滅に向かって進むしかないことが、
もう、ほの暗いプロローグで暗示されていた。
楽曲もマイナー(短調)で、ゆったりとした味わいのものばかりだった。
初演を観ていなくて、今回の『ヴェネチア――』だけを観劇したのだったら、
この、しっとりと心に染みる大人の物語を私は大いに気に入っただろうと思う。

しかし、私は、歌舞伎の團菊じじぃみたいな人間なのであった(汗)。
十一代目の華が云々、六代目の踊りがどうのと、
過去の俳優の話ばかりしている、昭和の化石みたいな爺さんたち。
「そんなに死んだ役者がいいなら、オマエも一緒に死んどけ、っつんだ!」
と、あらしちゃん(松緑)がいつぞや言ってたような。違ったっけ?
私は、なーちゃんをリアルタイムで、旧大劇・旧東宝で、観ている。
その退団も見送った。ちょうど30年前である。
初演の脚本演出の柴田先生も、音楽の寺田先生も、
それどころか、なーちゃん御本人さえも、既に故人だ。

当時「30年前の宝塚はねぇ…」などと言い出すババァが身近に出現したら、
20代の私は必ずや「うざっっっ!」と思ったに違いないので、
以下に書くことは、年寄りの繰り言であると最初にお断りしておく。
昔を知っていることなんか、ファンとして別に偉くもなんともない。
今回の『ヴェネチア――』に較べて、初演のほうが優れていた、
という話がしたいのではない。新生雪組は全然OKなのだ。
私は彼女たちの成果を心から認め、その船出を手放しで祝福している。
ただ、私は今回の上演を(配信で)観たことにより、遠い昔を思い出し、
かつて自分が良い舞台を観て幸せだったことを、
この機会に、書き留めておきたいと思っただけだ。
現在の雪組には全然関係のない、主観的思い出話をこれから書きますので、
要らない人はここまでで終了されてください。

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『ヴェネチアの紋章』の設定や背景については、
宝塚歌劇団公式サイトに解説がある。
91年の初演では、主役のアルヴィーゼを大浦みずき、
ヒロインのリヴィアをひびき美都、
語り手のマルコを安寿ミラが演じた。

初演『ヴェネチアの紋章』の魅力は、プロローグに集約されていた。
短い前奏のあと、さぁっと幕が上がると、そこはきらきらと光が溢れ、
人々の思いが交錯し、生命力と活力の漲るヴェネチアの街!
物語の登場人物が次々と舞台に現れて、華やかな群舞とともにソロを歌うのだが、
その楽曲がもう、色とりどりの魅力に満ちて、これぞ寺田瀧雄ワールドであった。

彼らによって矢継ぎ早に歌い継がれる楽曲はどれもアップテンポで、
たたみかける付点リズム、三連符、シンコペーション、
めくるめくアルペジオの反復、躍動的な上昇音型、
そうして最高潮に盛り上がった舞台に、主人公アルヴィーゼが登場するとき、
曲想は、初めてスケールの大きな、スローテンポのものになり、
……イントロが、ほんのり『港町ブルース』風味なのが気になりはしたが(爆)
「ヴェネチアの空は青く ヴェネチアの水は豊か」という歌詞にぴったりの
悠々としたメロディラインで、胸のすく爽快さであった。

アルヴィーゼとマルコが再会を喜び合う場面の曲が三拍子なのも好きだった。
三拍子は基本的に舞曲なので、リズムが難しいことが多いのだが、
なーちゃん(大浦)とヤンちゃん(安寿)はダンサー同士だったのもあってか、
歌うときも、この曲がなんとも愉快で小気味よかった。

音楽が生き生きと明るいのは、そもそも、初演版の根底にあるのが、
決して、「不幸な悲恋の物語」のみではなかったからだ。
初演台本の柴田侑宏先生は、この作品を輝きに満ちたものとして構成した。
物語の展開としては、アルヴィーゼとリヴィアの恋は決して実らず、
運命にあらがおうと、もがいた彼らの奮闘は報われることなく、
アルヴィーゼと周囲の青年たちは皆、戦場に散り、
リヴィアも彼を追って、その若い人生を無残に終えることになるので、
悲劇以外のなにものでもないのだが、それでもなお、エピローグもまた、
冒頭と同じく、明るい、光降り注ぐ『海の祭』の場面なのである。

そこで初演版のマルコは、アルヴィーゼとリヴィアに生き写しの、
若い恋人たちを偶然に見かける。
ふたりは手を取り合い、はじけるような笑顔で幸せそうに踊り、
やがて祭の雑踏の中に消えていく。曲は『モレッカ』。
賑やかな踊りの人波に遮られながら、ただ一人佇んで見送るマルコ。
彼が救い得なかった親友の恋の、絶望的な終焉と、
今、目の前を遠ざかって行く若者たちの、光麗しく照らされた前途。
そのコントラストが美しく鮮烈であればあるほど、
ラストシーンの余韻も印象的なものとなっていたのだった。

今回の雪組版では、このラストシーンが大幅に改編されていて、
「アルヴィーゼとリヴィアに生き写しの若いふたり」は全く登場しなかった。
これの直前、マルコは、ある少女に会いに、とある尼僧院を訪ねている。
その子というのは、アルヴィーゼとリヴィアの間に生まれた女児であり、
彼女が大人になったら妻に迎えよう、とマルコは心に決める。
海の祭の場面はその後にあり、かつてのアルヴィーゼを思い出させる、
黒衣の男性が一瞬登場するが、すぐに人違いとわかって終わり、
最後の場面は、アルヴィーゼとリヴィアのデュエットダンスになっている。
尼僧院と女児の逸話は、塩野七生の原作に書かれているものであり、
この世で結ばれなかった二人が、魂のダンスを踊るというのも、
宝塚的なラストシーンとしては美しい定番のひとつで、
雪組編は、やはり首尾一貫した悲劇として幕を閉じるようになっているのだ。

しかし私は、大浦みずきの演じた、ラストシーンが本当に好きだった。
アルヴィーゼに生き写しの若者の名は「フランチェスコ」で、
それは同じくリヴィアに生き写しの少女がその名を呼ぶからわかるだけなのだが、
私は当時、このフランチェスコの笑顔を観るために、
毎回(←何回観たんだ)劇場に行っていたと言っても過言ではなかった。
たった一場面しか出ない青年フランチェスコ、
おそらくアルヴィーゼよりもっと若く、まだ少年の面影さえある彼の笑顔は、
みじんの陰りもなく光り輝き、あの瞬間の幸福のために、この一編の芝居があった。

フランチェスコの出て来ない新版『ヴェネチア――』は、
少なくとも私にとっては、全く別の作品だった。
謝先生は初演に感動したと語っていらっしゃるようなのだが、
こういう改編になったということは、
同じ作品を観て、同じように感動したと言葉では言っていても、
全く、人それぞれ心の琴線に触れる箇所は異なるものだなと
今回のことで私は改めて悟った。
それほどに様々なものを内包した作品であり、
多くの可能性を持つ題材であると再認識できたことは収穫だったが、
私にとっての『ヴェネチア――』は1991年11月に
フランチェスコとともに完結していたのであった。
納得した。見届けました。

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