父は普段、穏やかで口数のあまり多い人ではないけれど、自分の興味のある分野、例えば仏像などの話題になると多弁になりました。
大人に対しても、子供だった私たちに対しても同じように仏像の講釈をして、特にそれは普通のこと、日常のことだと気にも留めませんでしたし、父の講義をいつも聞いているふりだけしていました。
しかし、それが少しおもしろいところであることに大人になってから気付きました。
高校の歴史の教師だから仏像にやたら詳しくても仕事柄当然だと思っていましたが、教科書に出てこない仏像のひとつひとつの薀蓄など教科書を完全に超えていて、それはやはり好きだったからだと思いました。
父もまた自分の好きなことと、仕事が合った幸せな人だったのかもしれません。(まだ生きていますが)
物静かで歴史に詳しい父ですが、車に乗ると大そうスピードを出しました。
物心ついた時からそういう車に乗っていましたので気付きませんでしたが、自分が免許を取ってからいかにスピードを出しているか分かりました。
昭和50年代中ごろまで乗用車にはある程度のスピード以上になると「キンコン、キンコン」と警告音がなるようになっていましたが、うちの車は走っている間じゅう「キンコン」が鳴っていました。
親子というのは本当に似なくてもいいところが似るもので、私が父から譲り受けたのは、天然なところと、前に前に行こうとする運転だけでした。
私は電車に乗ると寝てしまい、降りる駅を乗り過ごしてしまうのでなるべく座らないようにしています。
それくらい何度も乗り過ごしたことがあって、駅まで車で迎えに来てくれている妻にはよく迷惑をかけた。
そういうところを物心ついた時から見てきた息子は私に似たところを妻に指摘されるととても嫌がります。
本当に、私が傷つくくらい嫌がる。
高校の帰りのバスで爆睡してしまい終着の停留所まで行ってしまったことが何度かあるくせに。
一方で、母に似ているところもあるようで、やはり、どちらの親にも似ているところがあるから子供なのだなと感じます。
ありがとうございます。
本人が歓迎するしないに関係なく、似てしまうところがあって、それが面白いですね。
息子はこんな奴に似たくないと思っているかもしれませんが、血のつながりは侮れません。