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法王は青瓦台での演説で平和と疎通を提示し、その方法として外交の重要性を強調した。

2014-08-15 | 大韓民国
ローマ法王「韓半島、次第に一つに…そのために祈る」
2014年08月15日/中央日報日本語版


朴大統領とフランシスコ法王が14日午後、青瓦台で公式歓迎式を終えた後、本館で記念撮影をしている。

青瓦台(チョンワデ、大統領府)本館の前に立って待っていた朴槿恵(パク・クネ)大統領が傘を渡した。小雨が降っていた14日午後3時46分。本館に到着したフランシスコ法王が、乗用車から傘を差さずに降りたからだ。朴大統領が「少しお休みになりましたか」と尋ねた。法王は「休みました。ここに来ることになりうれしく思い、満足しています」と答えた。このように始まり、公式歓迎式、会談、贈り物交換と続き、午後5時19分に2人の演説が終わるまで、朴大統領の手は忙しく動いた。

歓迎式のために伝統服装をした儀仗隊の前を通り、査閲台の階段を上がる時、朴大統領は法王が立っているところを右手で指した。78歳の高齢の法王が楽に移動できるよう案内したのだ。朴大統領の配慮は行事中、何度も見られた。老眼鏡をかけた法王が会談の前、芳名録に「多彩な伝統があり、平和のために努力しながら、これを伝播するこの温かい国の歓待に感謝します」と書いた時は、そばに立って書き終えるまで待っていた。演説のため迎賓館に移動し、エレベーターに乗る時は、お互い先に乗るよう勧めた。朴大統領が法王に先に乗るようジェスチャーを見せると、法王は「(故郷)アルゼンチンではレディーファーストが原則」と譲歩した。すると朴大統領は「法王は(他の男性とは)違います」と言いながら再度勧め、結局、法王が先にエレベーターに乗った。迎賓館での演説では、先に終えて席に座る前、法王に目礼をした。

法王は青瓦台での演説で平和と疎通を提示し、その方法として外交の重要性を強調した。法王は「外交は可能性の芸術」と表現した。当初、法王が北朝鮮に向けたメッセージも送るだろうと予想されていたが、法王は北朝鮮という表現を使わなかった。その代わり「平和は単に戦争がないというものではなく、正義の結果」とし、積極的な和解を促した。

この日、法王は疎通について話しながら、「(韓国も)自然環境の責任ある管理に対する関心事で孤軍奮闘している」と述べた。李明博(イ・ミョンバク)政権当時、韓国の天主教が環境を破壊するという理由で4大河川事業に反対したことを考慮した発言ではないかという解釈も出てきた。



朴大統領:来年までに慰安婦問題解決策を…光復節の式典で

毎日新聞 2014年08月15日 11時29分(最終更新 08月15日 14時10分)


 【ソウル大貫智子】

 韓国の朴槿恵(パク・クネ)大統領は15日、日本の植民地支配からの解放を祝う「光復節」の式典で演説した。旧日本軍による従軍慰安婦問題が「正しく

解決されたとき韓日関係が堅実に発展し、来年の国交正常化50周年を両国国民が心から祝うことができる」と述べ、来年までに元慰安婦が納得できる解決策

を提示するよう日本に求めた。


昨年の演説では慰安婦問題に関する具体的言及はなかったが、今年は慰安婦問題の解決なしに韓国として関係改善は望めないとの姿勢を明確化した。今年3

月の「3・1独立運動」記念式典での演説でも慰安婦問題に言及している。

 一方で、北東アジアの緊張緩和に向け、日中韓3カ国が中心となる「原子力安全協議体」の設置を提案。北朝鮮に対しては核放棄を要求すると同時に、南北

間の相互理解促進のための協力事業を実施する方針を表明した。10月に韓国・東部の平昌(ピョンチャン)で開かれる環境に関する国連会合への参加や、来

年の解放70年を記念する文化事業の共同開催などを北朝鮮に呼び掛けた。

韓国戦争で最も大きな恩恵を受けたのはスペインのフランコ独裁政権だった。

2014-08-15 | 諸外国の見解・参考
【世界の中の韓国】世界史の中の韓国
2014年08月14日/中央日報日本語版


アジア大陸の一番端に席を占めた韓半島(朝鮮半島)は19世紀まで世界史にほとんど登場さえしなかった隠遁の国であった。当時は朝鮮にとっては中国と日本が世界の全てのようであったから。1853年にフェリー提督が黒船4隻を引き連れてやって来て日本を開国させ、1860年に英国が清国と阿片戦争を行い、アジアは歴史の荒波に巻きこまれる。だが、世の中の変化を体感できない朝鮮は結局、日帝の植民地に転落して暗鬱に20世紀を迎えた。忘れられた国、崩壊した国は解放を迎えたが、1948年に大韓民国と朝鮮人民共和国に分断され、その後肯定的にも否定的にも世界史に大きい影響を及ぼし始めた。

何よりも50年に勃発した韓国戦争(朝鮮戦争)は世界政治の地図を大きく変えた。まず永久に軍隊を持つことができない日本が自衛隊として再武装し、四分五裂していた右派政党らが55年に自由民主党として集結して37年以上の長期に渡り執権した。日本は確実な右翼国家になった。敗戦国であるドイツも55年に日本のように連邦防衛軍(Bundeswehr)で再武装した。米国はちょうど吹き始めた反共マッカーシー旋風に韓国戦争が油を注ぎ、共産主義者などを粛清して徹底した反共国家になった。

しかし、韓国戦争で最も大きな恩恵を受けたのはスペインのフランコ独裁政権だった。第2次世界大戦後唯一生き残ったファシズム独裁政権だったため自由陣営、共産陣営全体から排斥を受けて大使館が追い出され、国連加入も拒否されるなど蚊帳の外の境遇であった。韓国戦争が勃発すると西側陣営はいちはやくフランコ政権を味方に引き込むために外交関係を開設して国連にも加入させた。そのような政権が75年まで維持されたのだから、とにかく世界の歴史に韓半島が大きな役割を果したわけだ。

しかし、大韓民国が現代史を大きく変えたのはまさに88年のソウルオリンピックだ。東欧圏崩壊の直接的な口実になったためだ。これは当事者である過去の東欧圏の人々がたびたびする話なのだが、当の韓国人ばかり知らずにいる。彼らは共産党の宣伝により韓国が乞食の群れがうじゃうじゃいる国、悲惨で貧しい国だと思っていた。しかしソウルオリンピックがテレビで中継され、驚くべきほど発達した豊かな大韓民国に大きな衝撃を受け、はじめて共産党の宣伝にだまされていたことを知ったというのだ。ソウルオリンピックが不平・不満に膨らみきった東欧圏という風船を破裂させた針だったという話だ。ソウルオリンピックが開かれてから1年後、東欧圏が崩壊し始めたのは決して偶然でない。このように世界歴史を変えた契機を作った大韓民国の地位がフランシスコ法王の訪韓で一層高まっている。

イ・ウォンボク徳星(トクソン)女子大学客員教授