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1905年~1910年の日韓条約・協約は、韓国内の法手続きが不備。王印・玉璽がない無効の書類。

2021-03-10 | 大日本帝国が、大韓帝国王妃を殺害した!

韓国「強制併合」条約無効を訴える高宗(大韓帝国の王様)の親書

                   上の資料はブログ管理者が記入

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[寄稿]韓国と日本、未来にかかわる歴史問題

登録:2021-03-10 05:51 修正:2021-03-10 07:51
 
歴史問題の核心は、加害者の反省と被害者の許し、和解にある。これを通じて、加害者と被害者が過去の問題が再び起きてはならないという共通の認識を持たなければならない。共通の認識が目的であって、賠償が目的ではないのだ。今後、再び犯罪を犯しても、お金で賠償すればそれで済むのだろうか。

パク・テギュン ㅣ ソウル大学国際大学院長

 文在寅(ムン・ジェイン)大統領は三一節記念式典での演説で、韓日関係改善の必要性を強調した。特に歴史問題が未来に向けた両国の協力を妨げてはならないとして、歴史問題と懸案を切り離すことを呼び掛けた。韓日関係の未来に向けて最も重要な原則を明らかにしたのだ。ならば、歴史問題は重要ではないということだろうか?

 未来のためにも、歴史問題を解決するのはあまりにも重要だ。問題はいかに解決するかにある。これまで韓日関係において浮上した歴史問題の解決策は、その解決を先送りにしたために問題になったのではない。むしろ懸案と歴史問題を結びつけ、無理に解決しようとして問題になったのだ。

 1965年の韓日協定(日韓基本条約と請求権協定)と2015年の慰安婦合意は、その代表的な例と言える。1960年代半ば韓国政府は経済成長政策を急速に推進するため、そして米国は安保問題の解決と韓国に対する援助の負担を日本に負わせるために、韓日関係の正常化が必要だった。このため、韓国と日本は韓日協定を推進した。しかし、両国は不幸な過去について認識の合意には至らなかった。

 特に重要な問題は、1945年以前の協定をどのように規定するかであった。1905年の乙巳条約(第二次日韓協約)と1910年の強制併合条約(韓国併合条約)が条約当時から無効だという韓国と、1945年の敗戦以降になって無効という日本の立場が互いに対立し、苦肉の策として、両国の代表はそれぞれ国で、自分たちの立場どおりに発表を行った。日本政府は協定を通じて個人賠償まで完了したと言うが、韓国に対する植民地支配の合法性を主張しながら賠償を行うというのは、それ自体として矛盾だと言える。だからこそ、「賠償金」ではなく、「請求権資金」という聞きなれない用語が使われたのではないか。当時の苦肉の策は、これまで両国間の歴史問題解決の足を引っ張ってきた。

 2015年の慰安婦の合意も同じ前轍を踏んだ。中国の浮上と北朝鮮核問題によって米国政府は韓日間の緊密な協力を求めており、このため、両国政府は「慰安婦」被害者に賠償をするための合意文を発表した。しかし、両国政府は慰安婦問題に対する立場で意見の一致を見ることができなかった。合意以前はもちろん、その後も日本政府は慰安婦問題に日本政府や軍隊の直接介入はなかったとして、個人的な問題だと主張し、責任を認めようとしない。最近、米ハーバード大学のある教授が書いた論文でもこのような認識が表れている。合意に達したとはいえ、歴史問題は解決されないまま韓日関係はますます悪化している。

 歴史問題の核心は、加害者の反省と被害者の許し、和解だ。これを通じて加害者と被害者が過去の問題が二度と起きてはならないという共通の認識を持たなければならない。共通の認識が目的であって、賠償が目的ではないのだ。今後、再び犯罪を犯しても、お金で賠償すればそれで済むのだろうか。

 問題は、このように歴史認識の合意がないにもかかわらず、歴史問題を懸案解決の条件として掲げるなら、今後の韓日関係は一歩も進めないという点にある。前政権で歴史問題の解決なしには懸案についての協議をしないという条件を掲げたため、2015年に急に慰安婦の合意をしながら「不可逆的」という理解できない修飾語を付ける無理筋を自ら招いたのではなかろうか。

 両国政府は率直にならなければならない。歴史問題と関連して、韓国と日本社会が互いに認識を共有できていないという状況を認めなければならない。そして、当面の問題を解決するために多様な分野で協力し、同時に両国社会間の認識の共有を通じて不幸な過去が二度と繰り返されないよう、両国政府が努力すると約束すればいい。そしてこのような約束が守られるためには、両国政府が互いに異なる認識を持つテーマとその内容を明示しなければならない。そして、そのテーマと内容について具体的な研究を進め、両国の教科書に内容を明記することで両国社会の共感を得るようにすると宣言しなければならない。

 さらに、韓日間の歴史問題に対する共感を形成するために、韓国社会が優先しなければならないことがある。まさに私たち自らの歴史問題を解決することだ。特に最近、英国のある労働党議員が言及したように、ベトナム戦争のように過去に韓国が介入していた歴史問題の解決が必要である。これは国家の動員によって加害者になった参戦軍人の名誉を回復する道でもある。私たちの歴史問題に対してももっと厳しい目を向けなければならない。

 
//ハンギョレ新聞社
パク・テギュンㅣソウル大学国際大学院長(お問い合わせ japan@hani.co.kr)
http://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/986012.html韓国語原文入力:2021-03-10 02:43
訳H.J

1895年10月8日未明、高宗皇帝の妃の明成皇后が景福宮の居所に乱入した日本の浪人たちの手で残酷に殺害された乙未事変を、当時、王室警護員の資格で唯一目撃し記録した外国人だった。

2020-10-20 | 大日本帝国が、大韓帝国王妃を殺害した!
日本の「明成皇后殺害」、ロシア人目撃者に会う
登録:2020-10-20 06:37 修正:2020-10-20 09:03


「1883 ロシア青年サバティン、朝鮮に来る」展 
文化財庁、韓国・ロシア修交30周年記念の特別展 
日本の明成皇后殺害「乙未事変」を目撃し 
「高宗ロシア公館亡命」の舞台であるロシア公使館の建築に関与 
ロシア対外政策文書館所蔵の資料、初公開 
悲劇的な韓国近代史の外国人目撃者、サバティン 
朝鮮の近代建築の先駆者としての一面も浮き彫りに

      

朝鮮王室と密接な関係を結び活動したロシアの建築家サバティンの肖像写真=タチヤナ・シムビルチェバ氏提供//ハンギョレ新聞社

 「…日本人浪人たちが後宮と皇后と推定される女性を殺害した、意気揚々とした朝鮮の新たな『親日派』により、事実上、朝鮮の王が監禁される」

 このような文章で始める125年前のロシア出身の30代建築家の自筆の証言録は、埋もれてしまうところだった日本の蛮行を明らかにした史料として歴史に残ることになる。彼の名前はアファナシ・イバノビッチ・セレディン=サバティン(1860~1921)。1895年10月8日未明、高宗皇帝の妃の明成皇后が景福宮の居所に乱入した日本の浪人たちの手で残酷に殺害された乙未事変を、当時、王室警護員の資格で唯一目撃し記録した外国人だった。

            
重明殿の2階に設けられた展示場の入り口部分。「乙未事変の目撃者、サバティンの記憶」というタイトルが付いたプロローグ空間で、明成皇后殺害事件を目撃した彼の証言書や現場の略図などを写した複製写真が置かれている=ノ・ヒョンソク記者//ハンギョレ新聞社

 「皇后の寝殿で日本人の暴徒たちが行った蛮行を詳細に見た…日本人たちが朝鮮の女性たちの長い髪を掴んで引き出した後、窓の外へ投げ飛ばしていた。私が皇后宮殿の庭に立っている間、日本人たちは10~12人の宮女を窓の外に投げた」「日本人の頭目は再び私のところに来て、極めて厳格な口調で尋ねた。『我々はまだ皇后を見つけていない。皇后がどこにいるか知っているか?』」

         

1885~1890年の建設工事中のロシア公使館の様子。サバティンは公使館の設計修正案を作り、建設作業も主導したという//ハンギョレ新聞社

 当時の現場の状況を最も生々しく伝えるサバティンの証言録の様々な記述は、韓国の歴史上最も恥辱的な事件に挙げられる乙未事変が、日本の計略により行われた殺害劇だったことを立証する決定的な根拠になった。1883年に専門的な建築教育を受けないまま仁川(インチョン)の海関職員と土木技術者を兼ねて朝鮮に来たサバティンが、ロシア公使館を通じて大韓帝国末期の高宗皇帝夫妻と結ぶことになった縁は、じつに数奇だった。明成皇后が殺害される現場を目撃しなければならなかっただけでなく、皇帝が日本の脅威を恐れ1896~1897年に身を隠した(高宗ロシア公館亡命)ソウル貞洞(チョンドン)のロシア公使館を1885~1890年に設計し建設した。徳寿宮の重明殿や惇徳殿、独立門、景福宮の観文閣など、韓国の近代史に大きな痕跡を残した建物ごとに、サバティンが設計したり建設に関与した縁が刻まれている。それだけに、ウクライナ貴族の末裔のロシアの建築家が19世紀末~20世紀初頭の朝鮮で経験した人生は波乱万丈だった。

          

サバティン直筆の景福宮内の明成皇后殺害場所の略図//ハンギョレ新聞社

 文化財庁は20日から、韓国・ロシア国交正常化30周年を迎え、大韓帝国末期の朝鮮の建築物の設計と工事に関与したサバティンをテーマにした特別展「1883 ロシア青年サバティン、朝鮮に来る」を始める。重明殿の2階で開かれる大きくはない展示だが、この地の近代政治史と建築史に屈曲した足跡を残したサバティンの面貌に新たな光を当て、知らせるという意味をもつ。展示は、乙未事変に関連したサバティンの記録を紹介するプロローグから始まり、「朝鮮に来たロシア青年サバティン」「ロシア公使館、サバティンが手がける」「サバティン、済物浦(チェムルポ)と漢城(ハンソン、ソウルの旧名)を歩む」というタイトルの3つの部分に分かれる。特に序幕のプロローグに出てくるサバティンの証言録と景福宮内の殺害現場の略図についてのパネル写真の記録は注目に値する。1895年10月8日未明、日本公使の三浦梧楼を筆頭に漢城に駐留した日本軍守備隊と公使館員、浪人集団などが景福宮に乱入し、明成皇后を殺害した当時、当直を務めるために出勤したサバティンが目撃した事実を書き記した帝政ロシア対外政策文書保管館の証言録と景福宮の殺害場所を描いた略図の写真を直接見ることができる。

       

明成皇后殺害の事実に関するサバティン直筆の証言書。「親日派の朝鮮軍により朝鮮王宮が占領され、日本人の浪人たちが後宮と皇后と推定される女性を殺害した」というくだりで始まるこの証言書は、日本の蛮行を立証する決定的な証拠資料になった//ハンギョレ新聞社

 サバティンは仁川海関で乗船税関の監視員として働いていた1888年、漢城に行き宮廷建築を担当し高宗の信任を得ることになる。1895年の乙未事変の目撃後は恐れを抱き、しばらく朝鮮を離れ、1899年に仁川に戻ってから1904年の日露戦争勃発後に再び去るまで、建築土木事業に参加することになるが、1部と2部ではこのような建築家と土木技術者としての活動状況を、建築物に関連した文書と写真資料で見せる。彼の代表作である貞洞の旧ロシア公使館の1次・2次設計案と当時の工事現場の写真、彼の直筆で記した工事見積書、竣工できなかった大韓帝国皇帝私邸の正面図、公使館の工事代金を求める請願書などを初めて見ることができる。

      

サバティン特別展が開かれている徳寿宮の重明殿正面。重明殿は建築的特徴から見てサバティンが設計したという推測が出たことがあるが、確かな根拠は確認されていない=ノ・ヒョンソク記者//ハンギョレ新聞社

 あわせて彼が関与したことが確実だと評価されている景福宮の観文閣とロシア公使館、済物浦クラブなどの写真と模型図を展示し、朝鮮の近代建築の先駆者として活躍したサバティンの建築家としての一面を眺めることができる。昨年行われたサバティンと韓国近代期建築の関係に関する韓国建築歴史学会の研究の成果を基にした、学術報告の性格をもつ展示でもある。展示企画を諮問した培材大学のキム・ジョンホン教授は「サバティンの行跡にはまだ読み解かなければならない部分が多いが、ロシア対外政策文書館所蔵の資料を初めて一般に公開し、サバティンの現場作業の内容を精密に観察することができるようにした点は成果だと言える」と述べた。展示は11月11日まで。
ノ・ヒョンソク記者、写真・図版、文化財庁提供 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )