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西暦538年に百済の聖明王が釈迦仏金銅像一体と経文を大和政権に寄贈したのが日本仏教の始まりだっ た。

2016-09-16 | 日朝友好親善を!

〈奪われた朝鮮文化財・なぜ日本に 31〉中央・地方の美術館に三国時代の仏像

欠落する朝鮮の貴重な文化遺産という視点

朝鮮は古代仏教芸術品の宝庫である。仏教が、中国から朝鮮に伝来したのは、高句麗時代の小獣林王2年(西暦372年)の時で、中国人僧・順道が仏像、経文を初めてもたらしたと「三国史記」には記録されている。

仏教は高句麗に続いて百済、新羅にも伝播し、国家的な厚い保護を受けて隆盛を極めた。その間、数多くの仏寺が建立され、仏像、石窟、香炉、仏画、経典などの仏教芸術品がおびただしく創造された。

先達の美術工芸品として憧憬

先にも述べたが、仏教は朝鮮が日本へ伝えた。西暦538年に百済の聖明王が釈迦仏金銅像一体と経文を大和政権に寄贈したのが日本仏教の始まりだっ た。それだけに日本人にとって朝鮮に残された仏教芸術品は学術的な研究資料としてばかりではなく、先達の美術工芸品として憧憬の対象物だった。

王建陵

王建陵

日帝時代の歴史・考古学者らは三国時代の寺跡を訪れ、壮大な伽藍様式を調べ自国の寺との建築様式について薀蓄を傾けた。また石塔や浮屠、石造彫刻物、土中から発見される仏像にも目をむけ、ことこまかに調査した。

これら仏教芸術品に対する日本人学者の絶賛をこめた学術論文は、日本人略奪者の略奪意欲を一層あおる結果を招いた。

石塔や石造彫刻物が不法に持ち去られたことは前に述べたとおりであるが、新羅、百済、高麗時代の仏像もおびただしく奪われた。

東京・国立博物館をはじめ、地方の美術館には三国時代の仏像が所蔵されている。個人所蔵者も多く、その大半が不法取得といった経緯があって個数や内 容について明らかにしていない。ただ、所蔵していることに対する日本人の意識の程度がどのようなものであるかを痛感させられた筆者自身の一体験がある。

それはある地方美術館で新羅仏の数体を某日本人学者と参観した時のことである。新羅統一時代の「薬師如来立像」、「菩薩立像」と説明された像を見て、日本人学者はこう言い放った。

「新羅仏は、他の時代のものより多く発見され残っていたので、そんなに珍しいものではない。考古的価値もさほどのものではない」

この発言には他国の文化遺産が、どんな経緯で地方美術館の展示物になっているのかということへの疑問心のひとかけらも感じられない。この日本人学者に限らず、日帝当時の学者らも朝鮮民族の貴重な民族遺産であるという視点がまったく欠けていた。

百済時代の金銅仏を発見

東京帝国大学教授の黒板勝美は「三国時代朝鮮における唯一の金銅仏」(「考古学雑誌」第15巻第6号)という論文で、光背を持ち、しかも銘文が刻ま れている百済時代の金銅仏が発見されたことにつき、あれこれ述べている。黒板は1915年に朝鮮を訪問し、忠清北道の忠州に立ち寄ったがその際、郡書記 (日本人)の一人が仏像の光背を持っているという話を聞き、早速取り寄せて見たとのことだ。黒板はその像を見て「自分はほとんど飛び上がるような思いをし た」と述べ、その理由が「今までほとんど朝鮮の仏像に見たことのない金銅仏の光背が、三国時代の様式を備えているのに加えて、従来まったく発見できないと いってよい造像銘がいかにも美しい文字で刻まれてあるためだった」と興奮気味で書いている。

563年ぶりの王建座像 高麗時代。高麗初代の王、王建(877~943年)の青銅座像。高さ143.5センチ。この像は、2006年、ソウル国立中央博物館で開かれた「北の文化遺産-平壌から来た国宝」で最も注目されたもの。1992年、北の社会科学院は、高麗初代王の陵である顯陵の補修工事(すでに盗掘されて、ほとんど遺物はなかった)を行ったが、その北側5メートル地点から所々に金箔の残る1体の青銅像を発見した。はじめ調査団は、これを奇妙な仏像と見て、当初発表もしなかった。ところが、歴史資料と合わせて研究が進む過程で、これははじめて朝鮮の統一を成し遂げた高麗初代王を尊崇する人々が、951年、王の座像を作り、開城の奉恩寺に祀り、最も重要な国家の象徴として儀礼を行ってきたのであるが、朝鮮朝になって仏教を弾圧し、儒教を尊ぶ政策によって、1429年(世宗11年)顯陵の裏側に埋められたことが明らかにされた。この像は実に563年ぶりに復活したことになる。王冠をいただき、錦衣をまとう威厳と慈愛の眼をもった王者の風貌を見ることができる。

563 年ぶりの王建座像 高麗時代。高麗初代の王、王建(877~943年)の青銅座像。高さ143.5センチ。この像は、2006年、ソウル国立中央博物館で 開かれた「北の文化遺産-平壌から来た国宝」で最も注目されたもの。1992年、北の社会科学院は、高麗初代王の陵である顯陵の補修工事(すでに盗掘され て、ほとんど遺物はなかった)を行ったが、その北側5メートル地点から所々に金箔の残る1体の青銅像を発見した。はじめ調査団は、これを奇妙な仏像と見 て、当初発表もしなかった。ところが、歴史資料と合わせて研究が進む過程で、これははじめて朝鮮の統一を成し遂げた高麗初代王を尊崇する人々が、951 年、王の座像を作り、開城の奉恩寺に祀り、最も重要な国家の象徴として儀礼を行ってきたのであるが、朝鮮朝になって仏教を弾圧し、儒教を尊ぶ政策によっ て、1429年(世宗11年)顯陵の裏側に埋められたことが明らかにされた。この像は実に563年ぶりに復活したことになる。王冠をいただき、錦衣をまと う威厳と慈愛の眼をもった王者の風貌を見ることができる。

問題は郡書記の入手の経緯である。黒板が郡書記に尋ねたところ「忠州から遠くないある山里の朝鮮人が持ってきたので求めておいた」とのことであり「多分忠州付近の山寺跡から出たものであろう」と答えたという。

黒板はそれ以上のことを詮索もせず、ただ自分に譲り渡すよう懇願したが、郡書記は頑として応じなかったとのことだ。

しかし黒板がどのように手を回したものか、「かの金銅仏光背は総督府の有に帰することになった」と手放しで喜んでいる。

「朝鮮美術史」の著者の関野貞も黒板と同類の研究者である。関野は朝鮮美術全般に渡って研究した人物だが、仏像に対しても時代を区分しながらじつに くわしく論評を行った。その中で彼は自分が実見した仏像の個人所蔵者名を何人か挙げている。高句麗時代の「三尊仏小銅像」は伊藤慎雄、百済時代の「金銅観 音立像」は市田次郎、「銅造観音立像」は庭瀬広幸、「金銅釈迦立像」は丸山虎之助などである。

しかし関野も黒板と同じく所蔵の経緯については触れていない。だが次のようなエピソードが残されている。

1915年5月頃、関野がソウルの南山女学校の講堂で、自分が深くかかわった朝鮮総督府の「古蹟調査事業」に関する講演を行った時のことだ。講演の 後、ある日本人が鍍金の小三国仏を関野に見せ鑑定を願ったところ、関野は驚きの目を見張って「これは立派な三国仏です。日本の推古仏の形式です。こういう ものが民間に出るのはいけませんね」と注意したという。({朝鮮の回顧」浅川伯教)

これだけで見ると関野が朝鮮文化財の日本民間人への流出にいかにも心を痛めているかのようにも取られるが、彼が朝鮮総督府の文化財収奪政策の「古蹟調査事業」の幹部嘱託員として大いに「貢献」したことを考えれば、その言葉を額面どおりに受け入れることは出来ない。

(南永昌 文化財研究者)



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