今朝、鉄格子に手をかけた。巻きついている鎖をはずして、窓を開けるために。
「ヒヤッ」とする鉱物の感触が、指先を刺激する。
おもむろに渋くなっている取っ手を左に回して、観音扉の片方を押し出した。
するとさらりとした空気が、薄青色の光を携えて忍び込んできた。
蔵の二階に上がって、東側の窓をあけたときのことだ。
数日間、締め切りになっていた空気が、入れ替わっていく。
しばらく窓のそばに佇んで、空気の色をみていた。
「松のことは松に習え、竹のことは竹に習え」
芭蕉の言葉がふと脳裏に浮かんできた。
―我が感動するのではない。直接に「その物より自然に出づる情」が、我を打つのである。その時物と我とは一つになっている。―と書かれた一説を思い出す。
冊子「芭蕉における詩と実存」を読みなおす。
その一節を書き記しておきたい。
―「よく見れば薺花さく垣根かな」
ありふれた野草が、現前してくる瞬間がある。「何故なしに咲く」花。この花において、芭蕉は自然の生命を直観している。花が咲ききった「造化」の働きを感得している。しかも同時にこの花と一体となり、造化の働きの只中に自らも直観している。この薺の花は、天と地とそれを見る人間をも集摂し(versammeln)ながら、造化の働きそのものを著わしていといってよいであろうーこう記す著者・魚住氏によれば、「その物より自然に出づる情」は、「物我一智之場所」において造化の営みの顕われに打たれた情ということになるという。
このフレーズは、野口三千三先生が語られる「貞く」という姿勢が孕む「主客合一」のありようと同質のものと読むことが出来る。
野口体操は、客観の対象として「からだを読む」のではない。芭蕉のいう「物我一智之場所」に命が宿るからだで感じることを、この上なく大切にする体操である。
「その物より自然に出づる情」に打たれる。そうした行為こそが、野口先生が生涯をかけて求めた「野口体操」なのだと気づかされた。
「自然に貞く・からだに貞く」以外に道はない。
既成の概念で自分のからだと向かい合うのではなく、「今・ここにある身体」に即してみることが「貞く」という言葉に潜ませた野口先生の思いではなかったのか。
「私意をはなれ、そのものを直に掴み取れ」という言葉に置き換えてみるといっそうはっきりとしてくる。
からだをからだと見るためには、「松の事は松に習え」なのである。
いつしか時間の経過の中で、朝日の色は明るさを増した。
新しい空気に入れ替わって、滞っていた蔵の匂いは消えていく。
そうして、今日、一日が始まった。
十月十七日、朝の出来事を記す。
「ヒヤッ」とする鉱物の感触が、指先を刺激する。
おもむろに渋くなっている取っ手を左に回して、観音扉の片方を押し出した。
するとさらりとした空気が、薄青色の光を携えて忍び込んできた。
蔵の二階に上がって、東側の窓をあけたときのことだ。
数日間、締め切りになっていた空気が、入れ替わっていく。
しばらく窓のそばに佇んで、空気の色をみていた。
「松のことは松に習え、竹のことは竹に習え」
芭蕉の言葉がふと脳裏に浮かんできた。
―我が感動するのではない。直接に「その物より自然に出づる情」が、我を打つのである。その時物と我とは一つになっている。―と書かれた一説を思い出す。
冊子「芭蕉における詩と実存」を読みなおす。
その一節を書き記しておきたい。
―「よく見れば薺花さく垣根かな」
ありふれた野草が、現前してくる瞬間がある。「何故なしに咲く」花。この花において、芭蕉は自然の生命を直観している。花が咲ききった「造化」の働きを感得している。しかも同時にこの花と一体となり、造化の働きの只中に自らも直観している。この薺の花は、天と地とそれを見る人間をも集摂し(versammeln)ながら、造化の働きそのものを著わしていといってよいであろうーこう記す著者・魚住氏によれば、「その物より自然に出づる情」は、「物我一智之場所」において造化の営みの顕われに打たれた情ということになるという。
このフレーズは、野口三千三先生が語られる「貞く」という姿勢が孕む「主客合一」のありようと同質のものと読むことが出来る。
野口体操は、客観の対象として「からだを読む」のではない。芭蕉のいう「物我一智之場所」に命が宿るからだで感じることを、この上なく大切にする体操である。
「その物より自然に出づる情」に打たれる。そうした行為こそが、野口先生が生涯をかけて求めた「野口体操」なのだと気づかされた。
「自然に貞く・からだに貞く」以外に道はない。
既成の概念で自分のからだと向かい合うのではなく、「今・ここにある身体」に即してみることが「貞く」という言葉に潜ませた野口先生の思いではなかったのか。
「私意をはなれ、そのものを直に掴み取れ」という言葉に置き換えてみるといっそうはっきりとしてくる。
からだをからだと見るためには、「松の事は松に習え」なのである。
いつしか時間の経過の中で、朝日の色は明るさを増した。
新しい空気に入れ替わって、滞っていた蔵の匂いは消えていく。
そうして、今日、一日が始まった。
十月十七日、朝の出来事を記す。