羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

1959年の不思議

2008年03月19日 20時40分50秒 | Weblog
 このところブログに書いている『魅せられた身体』は、まだ読み終えていない。
 なかなか先にすすまないのは、万華鏡をのぞいたときのように行間からあらぬ方向に思いが迷い出てしまうからだ。
 
 昨日は1900年というキーワードだったか、今日は1879年に生まれた永井荷風のことが思い出された。ここにも数字の魔術が現れた。
 なぜって、荷風が亡くなった1959年にこの本の著者は生まれのだから。
 もしかして荷風散人の生まれかわりかもしれない!?
 どうしてこうも縁が絡まってくるのだろうか。ちょっと怖くなってきた。

 ここまできたら開き直ってしまおう。
 フランスに憧れ、フランス文化の洗礼を受けた荷風は、まずはフランス文学の手法で小説を書いていくのだ。自然主義文学が道しるべとなった作品群。ゾラの翻案はもとより、象徴詩の翻訳も行う。
 しかし洋行帰りのちょっと鼻持ちならない荷風だったが、次第に江戸へとユーターンしてしまう。それはきっとフランスの印象派の絵画や音楽、象徴詩を産みだしている芸術家たちが、こぞってアジア文化にイマジネーションをもらったことと無縁ではないだろう。
 
 荷風は意識的無意識的に、彼自身のアジアを求めた。
 そして見つけた。荷風にとってのバリは、明治という時代が東京の向こう側へ強引に押しやろうとした‘江戸’だったに違いない、とこの本を読みつつ気づかされたのだ。
 荷風の場合には複雑に屈折している。文明開化の日本に生まれ、西欧文化の光の乱反射を繰り返した結果、まわりまわって江戸の地にたどり着き文明批評家としての使命まで担っていくことになる。

 芸術作品を‘異文化から受けたイマジネーション’で創造していく行為と、文化人類学的に研究する学者としてのまなざしに加えて、荷風は近代日本が目指す欧化政策に批評眼というもうひとつの‘複眼’を持ったのだ。多分に言語というロジックの塊が厳然としてある異文化と出会ったことが大きいと思う。なんといってもフランス文化はラシーヌの演劇を持つ国なのだから。

 異文化とどのように関わっていくのか。
 私の脳の地図帳は、今、迷走状態に陥ったようだ。
 だが、ひとつだけ言えることがある。
 それは小沼氏の言語世界から、<植民地にならないまま欧化政策をとった日本の文化的特殊性>が、めくるめく現代を形創った奇跡のなかに、今、私が生かされていることを知らされた、ということだ。
コメント
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