2008年4月から、明治大学でも授業を受け持つことになった。
2002年度から、大学の体育のなかに入ったので、7年目の春を迎えることになる。
私だけではない。体操不得意の自分が、体育教官室に身を置くことになるとは、誰も想像だにしなかっただろう。
人生は最後までわからない、というのが今の実感だ。
野口三千三先生は、体育の教師として、授業をもたれた。
私はというと「野口体操」を教えるものとして、授業をしている。
なんとも時代が変わったという以外に言葉が見つからない。
とにかく体操といえば‘野口体操’しか知らない私にとって、体育教官室に身を置くことは、野口体操を外側からしっかりと見るよい場であったと思う。
大学は学校のなかでも、干渉されることがない。しかし、質問をすればどなたかがきちんと答えを下さる。その日のメンバーが集っている教官室で、他の先生方の会話も耳に入ってくる。
少なくともごく当たり前のこととして就職を考えている十代後半から二十代前半の学生に、野口体操のエッセンスを伝えることからも、学ぶことは大きかったが、体育の先生方と同じ場と時間を共有する体験も、同じ比重で大切なことだと思っている。
野口体操の視点を、別の角度からも持つことができたことで、‘私の野口体操’の方向性が見えるようになったといえるかもしれない。
今頃になって、野口先生はいかがだったのかと思いをめぐらせている。藝大という特殊な大学であっても、そこには野口体操とは縁のない体育の先生がたくさんおられるわけだから、先生も同じような空気をご存知だったのだったと想像ができるようになった。もちろん野口先生は学校組織の中の体育の指導者なのだ。
その意味では67歳で退官されてから野口体操の個性は遠慮なく磨かれていったということに気づかされた。
今の自分を省みると‘数奇な運命’というほどではないけれど、思いもかけない道を歩いている。
さて、もうすぐ新学期が始まる。
この道を歩み出すきっかけは「2年間、結核の療養をしたつもりで、野口体操に本気で取り組んでみよう」と思った1975年に遡る。暮らしの中身をガラリと変えて、中心に野口体操を置いて33年が経過した。
月並みだが春は気分一新、一年が始まる。
2002年度から、大学の体育のなかに入ったので、7年目の春を迎えることになる。
私だけではない。体操不得意の自分が、体育教官室に身を置くことになるとは、誰も想像だにしなかっただろう。
人生は最後までわからない、というのが今の実感だ。
野口三千三先生は、体育の教師として、授業をもたれた。
私はというと「野口体操」を教えるものとして、授業をしている。
なんとも時代が変わったという以外に言葉が見つからない。
とにかく体操といえば‘野口体操’しか知らない私にとって、体育教官室に身を置くことは、野口体操を外側からしっかりと見るよい場であったと思う。
大学は学校のなかでも、干渉されることがない。しかし、質問をすればどなたかがきちんと答えを下さる。その日のメンバーが集っている教官室で、他の先生方の会話も耳に入ってくる。
少なくともごく当たり前のこととして就職を考えている十代後半から二十代前半の学生に、野口体操のエッセンスを伝えることからも、学ぶことは大きかったが、体育の先生方と同じ場と時間を共有する体験も、同じ比重で大切なことだと思っている。
野口体操の視点を、別の角度からも持つことができたことで、‘私の野口体操’の方向性が見えるようになったといえるかもしれない。
今頃になって、野口先生はいかがだったのかと思いをめぐらせている。藝大という特殊な大学であっても、そこには野口体操とは縁のない体育の先生がたくさんおられるわけだから、先生も同じような空気をご存知だったのだったと想像ができるようになった。もちろん野口先生は学校組織の中の体育の指導者なのだ。
その意味では67歳で退官されてから野口体操の個性は遠慮なく磨かれていったということに気づかされた。
今の自分を省みると‘数奇な運命’というほどではないけれど、思いもかけない道を歩いている。
さて、もうすぐ新学期が始まる。
この道を歩み出すきっかけは「2年間、結核の療養をしたつもりで、野口体操に本気で取り組んでみよう」と思った1975年に遡る。暮らしの中身をガラリと変えて、中心に野口体操を置いて33年が経過した。
月並みだが春は気分一新、一年が始まる。