日出ずる国、東の三輪山は朝日がさす神の山と言われる。
しかし、人は誰でもいつかは黄泉の国に赴くように、日は沈むもの。
そこで西の二上山は死の山としてこの山を中心に陵(みささぎ)が多く点在する。
かつて火山であった二上山は、サヌカイトや紫蘇輝石、金剛砂、コランダム(赤はルビー、青はサファイア)等々が、産出する山なのだ。
国語の先生に導かれた二上山の物語は、二十歳代で一時とまっていた。
なぜなら野口体操に一心不乱に突入した自分があったからだった。
ところが数年前五十代の私が、『思想の科学』に野口体操の記事を捜し求めたその時、五木寛之の対談を見つけた。辞書にない言葉の話だ。
「もしかして、五木寛之へのイメージは、間違っているのかもしれない」
流行作家としての五木寛之としてのイメージで、まともに作品を読まずして避けていた。それはもの凄く間違った思い込みに過ぎないのではなかろうか。
それから夏の盛りに、五木作品を年代順を追って読んでみた。
この人は硬派の作家だった。
そして我が青春の二上山は、五木作品中の『風の王国』に帰着した。
デラシネ・マージナル・遊行の民、日本の近代国家が、存在を許さなかった人々。明治からの表と裏を、こうした作品に投影して「国家とは何か」「個人とは何か」を問いかけている事に気づかされた。
歴史のなかに意図的に葬り去られた非定住民は、五木寛之の身体のうちに根付く心性と深く関わっていることが陰に陽に書き込まれている作品だった。
宗主国の人間として少年期までを過ごし、突然ある日を境に国を失い、流浪の民として生きざるを得なかった五木。
『風の王国』は、二上山のある葛城を舞台に、「心意伝承」、日本人が明治以降は密かに隠し持ち続けた死生観・神や霊や心についての観念を、口頭伝承‘口伝’によって、‘面授’していく「身体の奥義」を描き出すことで、戸籍によっ統治された国民としての存在意識ではなく、たとえ国が滅びても失われることがない、身体の内側にしっかりと伝えられた‘人としてのアイデンティティー’を、描き出したものだったと知ったときの衝撃は大きかった。
それは国語の先生が指し示してくださった「二上山」から、自分の出会った我が‘青春を超えた二上山’だったのではなかったか、と思っている。
流行作家の仮面の下に、三輪山ではなく二上山が隠されていることで、五木寛之の文学がなりたっていることを知った瞬間でもあった。
山の民・海の民・遊行の民の存在が、五木文学の基底文化として脈脈と生かされていることの発見だった。
そこからもう一度『あめりか物語』『ふらんす物語』から、荷風が迷い込んだ江戸に遡ってみると、近代の日本が失ってきたものが透けて見える。
売文を嫌った永井荷風と、売文で糊口しのいだ五木寛之という二人の作家が、文壇に存在する面白さを感じている。
二上山は火山。大地を生きものを黒く焦し、沈む太陽が次なる夜明け火の国‘日出ずる国’へと転生していく、その狭間で生きているのが五木寛之に違いない。
その目は西の彼方へと注がれていた。
しかし、人は誰でもいつかは黄泉の国に赴くように、日は沈むもの。
そこで西の二上山は死の山としてこの山を中心に陵(みささぎ)が多く点在する。
かつて火山であった二上山は、サヌカイトや紫蘇輝石、金剛砂、コランダム(赤はルビー、青はサファイア)等々が、産出する山なのだ。
国語の先生に導かれた二上山の物語は、二十歳代で一時とまっていた。
なぜなら野口体操に一心不乱に突入した自分があったからだった。
ところが数年前五十代の私が、『思想の科学』に野口体操の記事を捜し求めたその時、五木寛之の対談を見つけた。辞書にない言葉の話だ。
「もしかして、五木寛之へのイメージは、間違っているのかもしれない」
流行作家としての五木寛之としてのイメージで、まともに作品を読まずして避けていた。それはもの凄く間違った思い込みに過ぎないのではなかろうか。
それから夏の盛りに、五木作品を年代順を追って読んでみた。
この人は硬派の作家だった。
そして我が青春の二上山は、五木作品中の『風の王国』に帰着した。
デラシネ・マージナル・遊行の民、日本の近代国家が、存在を許さなかった人々。明治からの表と裏を、こうした作品に投影して「国家とは何か」「個人とは何か」を問いかけている事に気づかされた。
歴史のなかに意図的に葬り去られた非定住民は、五木寛之の身体のうちに根付く心性と深く関わっていることが陰に陽に書き込まれている作品だった。
宗主国の人間として少年期までを過ごし、突然ある日を境に国を失い、流浪の民として生きざるを得なかった五木。
『風の王国』は、二上山のある葛城を舞台に、「心意伝承」、日本人が明治以降は密かに隠し持ち続けた死生観・神や霊や心についての観念を、口頭伝承‘口伝’によって、‘面授’していく「身体の奥義」を描き出すことで、戸籍によっ統治された国民としての存在意識ではなく、たとえ国が滅びても失われることがない、身体の内側にしっかりと伝えられた‘人としてのアイデンティティー’を、描き出したものだったと知ったときの衝撃は大きかった。
それは国語の先生が指し示してくださった「二上山」から、自分の出会った我が‘青春を超えた二上山’だったのではなかったか、と思っている。
流行作家の仮面の下に、三輪山ではなく二上山が隠されていることで、五木寛之の文学がなりたっていることを知った瞬間でもあった。
山の民・海の民・遊行の民の存在が、五木文学の基底文化として脈脈と生かされていることの発見だった。
そこからもう一度『あめりか物語』『ふらんす物語』から、荷風が迷い込んだ江戸に遡ってみると、近代の日本が失ってきたものが透けて見える。
売文を嫌った永井荷風と、売文で糊口しのいだ五木寛之という二人の作家が、文壇に存在する面白さを感じている。
二上山は火山。大地を生きものを黒く焦し、沈む太陽が次なる夜明け火の国‘日出ずる国’へと転生していく、その狭間で生きているのが五木寛之に違いない。
その目は西の彼方へと注がれていた。