羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

我が青春……万葉二上山の砂

2008年03月07日 08時37分35秒 | Weblog
 冬の大和路は、深々と寒さが身に凍みる。
 夏の大和路は、じりじりと暑さが身に堪える。

 大津皇子の屍(みかばね)を葛城の二上山に移し葬(はふ)りし時、大来皇女の哀傷して作りませる歌二種

  現身(うつそみ)の人なる吾や明日よりは
  二上山を兄弟(いろせ)と吾見む

  磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど
  見すべき君がありといわなくに

 山は神々のおわします処。
 鎮魂(たましずめ)の歌は、後々に語り継がれていく。
 それだけでなく古人が、歌に読み込んだ情景を通して、大和を見る日本人が存在する。
 
 この写真に写っているガラス瓶の中身は、鉱物学の堀秀道さんからいただいた二上山の砂。
「黒い方は‘鉄バン ザクロ石’、白い方には‘サファイア’の欠片が入っているかもしれません」
 渡されたときの添え言葉だった。
 堀先生は、何回となく二上山をお訪ねなっておられるという。
「砂に貴石や宝石が混じっていても不思議はありません」
 驚きの表情でご尊顔を拝する私に、たしなめるようにおっしゃった。
 凡人としては、宝石や貴石が交じり合った砂に遭遇するとその驚きは深い。
 その思いは科学ではない。人の情なのだ。
 そして、その驚きは、さらに人の業にいる。
 だからこそ神が求められるのだ。

  (覆された宝石)のような朝
  何人かが誰かとさゝやく
  それは神の誕生の日

 西脇順三郎のこの三行詩は、「キーツか誰かの本歌取りだということが(覆された宝石)という表記から読み取れる」のだそうだ。
 しかし、誤解と曲解と偏見と独断で、二上山に眠る王侯貴顕への挽歌・鎮魂歌ととって、悦に入っている私。
 折口さんも真っ青な石から読み取るファンタジーかも。
 くれぐれもお許しをいただきたく……。 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする