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理由についてのエトセトラ。

2025-03-28 21:19:13 | Weblog

いちばん初めに聴いた拓郎のアルバムは70年代の

「今はまだ人生を語らず」だった。僕は13歳。

すごく反権力的な感じで攻撃的な内容だったと思う。

放送禁止用語も入っていて、現代ではラジオでかかることはない。

そのアルバムの中に「知識」という歌があって、たぶん拓郎自身の作詞だと思うのだが、

これも攻撃的な内容で、世の知識人みたいな輩を攻撃してるのだが

その中に

「一人になるのに理由が要るか 理由があるから生きるのか」という歌詞があって、

何故か今日はそれが一日中頭の中で鳴っていた。

 

そう、考えてみたら(考えなくても)世の中、

理由がある事ばかりではないのだし、理由なんかなくても全然いいのだし、

むしろ理由のないことの方が多いのではないか。

 

我々は理由もなく生まれて来た。

もしかしたら、死ぬことの方に理由が要るのではないか?

例えば「病気」とか「自己」とか「自死」とか。「衰弱死」とか、「溺死」とか。

理由のない死ってもしかしたら・・・・ないかも。

何もなくったって老いれば「老衰」で死ぬのだ。これも立派な理由だ。

これは今日の発見だった。

生きるのに理由はいらないが、死ぬことには理由が付き纏う。

 

しかし生きることに付随する様々な行動はそのほとんどが「理由付け」される。

例えば・・狼の遠吠えは仲間を呼んでいる?いや、あれだって実は理由なんかないのだ。

いろんな事のほとんどが「後付け」なのだ。

リンゴが木から落ちるのも引力の存在のせいではない。理由はないのだ。

我々が集まって音を出すのも然り。

そうせざるを得ないから、そうするのだ。

特にカネも儲からないし劇的に女の子にモテるわけでもない。

でも「表現」とはそういうものなのだ。

 

理由なんてなくてもいいんだ、って考えたら

いろんな事が楽になる気がする。

 

僕はとにかくブッキッシュで頭でっかちで理詰めで衝動的で、

理由を探しながら生きて来たようなものだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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