まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第10回九州西国霊場めぐり~第23番「和銅寺」(諫早湾から雲仙を望む)

2022年05月10日 | 九州西国霊場

5月3日、諫早駅からレンタカーで出発。まずは東に戻る形で九州西国第23番の和銅寺を目指す。国道207号線で市の中心部を走る。途中からはバイパスに入り、右手に干拓地、そして奥に雲仙の姿が見える。

20分ほどで国道から別れ、高来地区に入る。やがて和銅寺の看板が見え、細道を上がったところで駐車場に出る。山門はなく、そのまま境内に入る。曹洞宗とあり、寺の前には和銅保育園というのがある。寺が経営しているのかな。

和銅寺はその名の通り、和銅年間に行基により開創されたという。九州北部には行基が彫ったとされる「行基七観音」というのがあり、現在はいずれも九州西国霊場の札所になっている。これまでに訪ねた第19番観音寺、第20番地蔵院、第22番観世音寺。そして現在地の第23番和銅寺、これから訪ねる第24番観音寺。さらに次回以降の第26番観音寺、第27番清岩寺である。行基が実際にこれらすべての寺を開いたのかは言い伝えの部分もあるだろうが、大宰府を中心とした九州北部は大陸とも近いところであり、古くから仏教文化が栄えていたことがうかがえる。

現在の本堂は明治時代の再建とのことで、その扉の前に一対の仁王像が立つ。慈覚大師作と言われているが、長年の風雪のためかかなり傷んでいる。

扉を開けると「圓通」の扁額がある。仏教で、すべてに行き渡って妨げのない悟りの境地という意味だそうで、この言葉を名前にした寺も各地にあり、九州西国霊場でも大分に第10番円通寺があった。まずはお勤めとする。

境内には昔からの石仏も並ぶ。その奥にあるのは、肥前の戦国大名・龍造寺隆信の墓碑。

龍造寺隆信は「肥前の熊」などの異名を持ち、その勢力は九州北部全体に及んだ。しかし、島原半島を領地とする配下の有馬晴信が薩摩の島津氏と組み、反旗を翻した。隆信は島津・有馬軍を討つために進軍し、途中和銅寺にも立ち寄ったという。そして両軍が戦ったのだが、龍造寺軍は島津・有馬両軍の策略で泥田・沼地の沖田畷に誘い込まれ大敗、隆信も討ち死にした。この沖田畷の戦いは九州の勢力図が一気に変わる戦となり、以後、島津氏が九州の大半を支配することとなった。

隆信の遺体は首実検後に和銅寺に運び込まれて、荼毘に付され骨は佐賀に持ち帰ったという。明治になり、龍造寺一門の末裔である諫早一学という人が墓碑を建てたとある。

なお、これはブログ記事を書く時に初めて知ったのだが、和銅寺には隆信が武運を占ったというおみくじ箱が残されているそうだ。島津・有馬を討つための途中、和銅寺でくじを引いた。すると最初に出たのは「凶」。そしてもう1本引くと同じく「凶」。さらにもう1本引くとこれも「凶」だった。家臣たちは進軍をやめるよう勧告したが隆信は聞き入れず、そして沖田畷の戦いで敗れ、戦死・・。ここでもし進軍をやめていればどうだったかと想像してみるが、後年伝えられている隆信の人物像からして、進軍をやめるという選択肢はなかったと考えられそうだ。

庫裏にて朱印をいただき、和銅寺を後にする。

さて、次の観音寺に行くには来た道を引き返して諫早市街を通り抜けるのが最短だが、時間はあるし回り道とする。九州西国霊場の札所はないが、島原半島に少しだけ足を踏み入れることにした。通るのは、諫早湾干拓堤防道路である。

諫早湾干拓事業で造られた堤防の上を走るもので、佐賀の鹿島市、太良町方面と長崎の雲仙市、島原市方面をショートカットすることができる。地図で見て面白そうだなと思い、せっかくなので渡ってみる。ちなみにこの道路に路線バスは通っていないため、クルマならではである。

この堤防道路、「雲仙多良シーライン」という愛称はあるものの、諫早湾の干拓と聞くと堤防の水門を開けろ、いや開けるなと長年論争になっているややこしい裁判を連想させる。

道路自体は快適で、諫早側から入ると前に雲仙、後に多良の山々が見えるし、両側の景色もすばらしい。

ほぼ中間地点には駐車場とトイレのある休憩スペースがあり、ドライブやツーリングの人たちで賑わっている。こういう場所なのでレストランや売店があってもよさそうなものだが、あくまで堤防の一部ということで商売は認められていないようだ(そういえば自動販売機もなかったように思う)。

諫早湾干拓の問題について改めて整理すると・・。諫早湾の干拓そのものは江戸時代にさかのぼり、堤防で徐々に海を締め切って新たに平野が生まれ、水田が広げられた。一方でこの辺りは集中豪雨や洪水が発生しやすく、有明海も遠浅のため水の行き場がないためにたびたび農作物に大きな損害が発生した。そこで、諫早湾を巨大な堤防で完全に閉め切って、巨大な干拓地を造る構想が持ち上がった。その結果、1997年に潮受堤防が完成し、水門が閉じられた。

同じ時期、有明海のほうでは名物である養殖ノリの不作、色落ちやタイラギ貝の死滅といった漁業被害が表面化した。漁業関係者は潮受堤防の水門閉め切りが原因だとして、水門を開けて調査するよう国に求めた。これに対して長崎県は干拓農地に海水が入って塩害にさらされるとして反対。以後、開けろ、閉めろ、開けるな、閉めるなをめぐっての裁判となり、確定判決のはずが何度もやり直しになり・・・干拓事業について説明したネット記事を読んでまとめてみたが、わけがわからなくなって途中で断念した。

その代わりに思い出したのが、「開けて~閉めて~開けて~閉めて~開けて~閉めたら入れな~い!」という昔の吉本新喜劇のギャグ・・・。

全長8キロの堤防道路を走り抜け、ここから観音寺に向かうところだが、道路標識を見てふと気が変わった。ふと、島原城まで行ってみようか・・という気になった。実際に行くとその先の時間はぎりぎり、昼食抜きのパターンになりそうだが。

実は翌日、島原鉄道に乗る予定にしている。ペイペイドームでの野球観戦ではなかったかと思うが、そこはダイヤを押さえている。島原鉄道に乗るのはよいとしても、沿線は通過するだけである。ならばせめて城くらいは行こうかと、国道251号線を諫早ではなく島原方面に曲がることに・・・。

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