まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

『最長片道切符の旅』をめぐる机上旅行~第34日(都城~薩摩大口)・その1

2020年06月17日 | 机上旅行

宮脇俊三が運賃計算キロ計13,319.4キロに及ぶ、当時の「最長片道きっぷ」を携えて北海道の今はなき広尾線の終着駅の広尾を出発したのが1978年10月13日。それから何度かの中断を経て、ゴールの枕崎まであと一息のところで有効期間の68日を迎えた。『最長片道』の旅としては実質第33日であるが、やはり途中でやむを得ない事情で旅を中断するとか、本人が風邪で1週間寝込んだとか、さまざまなハードルがある。鉄道趣味が現在のように認知されていない時代だから仕方がない。

2020年の現在なら、鉄道趣味は当時に比べれば認知されてきたし、「最長片道きっぷ」の距離も短くなったので、実践する人も増えているのではないかと思う。

それはともかく、『最長片道』では第33日の朝に志布志で致命的な寝過ごしをした後、大隅半島を回って日豊本線で都城まで来た宮脇氏。もうすでに有効期限終了までのカウントダウンが進んだところで、都城で打ち切るとその時点でゲームオーバー。夜の区間だが、宮崎発吉都線~肥薩線~鹿児島本線経由の博多行き特急「おおよど」で一気に八代まで向かう。

一方、すでに『最長片道』のペースからすっかり置き去りにされた机上旅行は、そもそもきっぷの有効期限など関係ないので、都城1泊から吉都線に乗る。えびの高原を抜ける列車だが、時刻表をいろいろ見ると、前日は都城で打ち切るのではなく、夕方の吉都線に乗って、終点吉松の手前にある京町温泉に泊まってもよかったかなと思う。翌朝乗る吉都線の列車は同じだし、リアルでもなかなか訪ねることのない山間の温泉というのもいいだろう。

吉松に到着。この先、肥薩線の人吉までの区間は日本三大車窓の一つともされる矢岳越えの区間である。JR九州も観光路線として位置づけていて、人吉から吉松に向かう列車を「いさぶろう」、吉松から人吉に向かう列車を「しんぺい」としている。気動車を改造した観光列車が走るが、それを含めても、吉松~人吉間は1日3往復しかない。私も観光列車で通ったことがあるが、乗っているのは観光客、中には旅行会社の団体ツアーもあったかもしれない、そうした人ばかりである。県を跨ぐ区間、しかもループ線とスイッチバックを兼ね備えるだけの区間なので、日常生活として地元の人が利用することなどほとんどないのだろう。

人吉に到着。机上旅行ではまだ昼間なので球磨川の景色を見ながら八代まで下るが、『最長片道』では車内で思考回路が停止したかのようである。日本三大車窓の一つも寝過ごしたために暗闇の中での通過となったが、宮脇氏は特急なので車内販売が乗務しているのをいいことに、ワゴンが通るたびに缶ビールだ、日本酒だと買い求める。これは飲み鉄というのではなく、そうしている間に「最長片道きっぷ」の期限が切れてしまう。だからといって誰に文句を言うのか。仕事関係の人たちか、余計な知恵をつけたのが完全に裏目に出てしまった種村直樹氏か、あるいは健康管理、自律がなっていなかった宮脇自身か。果ては、このきっぷに対して有効期間などというくだらんルールを決めた国鉄そのものに対してか。

車内販売でいろいろ買って、おそらく販売員の女性にちょっかいも出したであろう行程を経て、宮脇氏が乗った特急「おおよど」は20時30分を回って八代に到着。その時間だし、翌日の行程を踏まえると八代宿泊しかないと宮脇氏は決意する。そして八代駅改札の係員に、「継続乗車」の適用を申し出る。

当時に止まらず現在もJR各社で有効の「旅客営業規則」。その中の「継続乗車」とは、そもそもは、使用を開始した後で乗車券の有効期限が過ぎてしまった場合でも、目的地の駅までは通してあげましょうという考えが前提にある(もちろん、短距離の当日のみ有効、途中下車前途無効の乗車券はこれに該当しない)。ただし、有効期限が過ぎているのだからその先での途中下車は認められず、とりあえずさっさと目的地まで行け、という扱いである。

ただし、列車の運行時刻は限られているから、その途中で終電となり先に進めなくなることもある。かといって途中下車は禁止だから、それなら駅のホームで一夜を明かせというのか・・・という事態も想定される。その場合は、乗り継ぐ列車を駅員が指定して、その列車に乗せてあげるという証明印を押して駅の外に出してあげる、という措置を取ることになる。ただし、その措置ができるのも、その日にこれ以上先に進めなくなった場合のことで、まだ列車が動いている時間であれば、とりあえず行けるところまでは行け、というのが原則である。

八代の駅員は宮脇氏から「継続乗車」の申し出を受けたが、この後、21時57分の出水行きがあるので、それに乗って出水(23時37分着)で「継続乗車」の手続きをするように案内する。列車が動いている限り、とりあえず行けるところまでは行け、という原則である。これに対して宮脇氏は、仮に出水まで行って翌日その先を行っても、川内から乗る宮之城線(現在は廃止)に乗る列車は同じなので、そんな時間に出水まで行って宿を探すくらいなら、八代で「継続乗車」の扱いにしても同じではないかと食い下がる。ただ、「旅客営業規則」に従えば駅員に分がある。最後に宮脇氏は八代で泊まることを選択し、「最長片道きっぷ」の残り区間は放棄することにした。

「最長片道きっぷ」の有効期限は切れてしまったが、宮脇氏は八代の駅員とのやり取りについて、「思い返してみると、この駅員こそ私の最長片道切符に対して真正面から対応してくれた唯一の国鉄職員ではなかったか」と、さっぱりした気持ちになっている。この切符を手に北海道から乗車して、途中下車、車内改札は何度となくあったが、車内改札の多くは切符に驚くばかりでろくに中身も見なかったとか、途中下車印も面倒くさいので自分で押せとか、あまり関わりたくなさそうな職員も多かった印象である。八代の駅員はごく普通に「継続乗車」のルールに従った対応をしただけだったのだが、それが「真正面から対応してくれた唯一」と書かれるのだから、何ともいえない。この駅員、当時頭の禿げあがった中年だったから現在はもう退職して、果たしてご存命かどうかというくらいの方だろう。

これは「取材ノート」でも触れられているし、ネット記事やブログでも取り上げられているが、もしこの日の朝、志布志の旅館で寝過ごさずに予定の6時24分発に乗っていればどうだったか。午後の明るい時間に八代まで来て、その後出水も過ぎて川内に到着。しかし、その先の宮之城線の運転が終わっていて、川内で「継続乗車」の手続きとなる。「枕崎まで行くのが目的なら鹿児島本線で西鹿児島まで行け」と言われるかもしれないが、そこは乗車券の経路を尊重するのだろう。そして、翌日は途中下車できない制約はあるものの、「最長片道きっぷ」は無事枕崎まで有効で着くことができた。

一方で、ここまで来てしまうと、途中下車印で埋めつくされて券面に書かれている事項もほとんどわからなくなっていたし、68日の有効期間がこの日で切れるとしても、ふと魔がさしたり、あるいは本人がそのことに気づいていなかったりして、八代や川内で「継続乗車」の申し出をせず、そのまま枕崎までスルーできたかもしれないと想像する。いやいや、最後の最後、西鹿児島で気づかれてきっぷそのものを取り上げられて、不正乗車のペナルティを科されていたかもしれない。

最悪なのは、仮に枕崎までその状態で乗り終えたうえで『最長片道切符の旅』が出版された後で、読者からそれを指摘された場合。当時ならどういう反応が起きたかは時代背景の違いもあるのでわからないし、鉄道の知識に詳しい人がそれほどたくさんいたわけでもないだろうからごく一部の波紋にしか過ぎなかっただろう。これがもし現在のようにコンプライアンスに敏感な世なら、宮脇氏、国鉄の双方が責められ、鉄道紀行作家としての宮脇氏の人生もひょっとしたら終わっていたかもしれない。そうなると『時刻表2万キロ』も否定され、その後に鉄道趣味が世に認知されることも、そういうことを商売にする人が出ることもなかったかもしれない。この時の宮脇氏、八代駅員の「けじめ」が、いろいろなものを守ったとも言われている。

・・・机上旅行では八代着はまだまだ昼。ともかくこの先に進むのだが、本文が一つのクライマックスを終えたところで、ここでいったん記事を区切ることにする・・・。

 

※『最長片道』のルート(第33日続き)

都城17:37-(「おおよど」)-20:37八代

 

※もし行くならのルート(第34日)

都城6:37-(吉都線)-8:13吉松8:46-(肥薩線)-9:43人吉10:14-(肥薩線)-11:34八代・・・(以下続き)

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