まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

『最長片道切符の旅』をめぐる机上旅行~第33日(宮崎~都城)

2020年06月15日 | 机上旅行

1978年の宮脇俊三『最長片道切符の旅』をめぐる机上旅行、南九州編である。

机上旅行では宮崎9時08分と遅めのスタートである。日南線の始発は5時26分発の志布志行きだが、これでこの後のルートをたどったとして、この日は吉都線・肥薩線の分岐である吉松までしか行けない。その先、人吉に向かう列車は翌朝の便である。これなら、手前の都城に泊まっても同じことで、時刻表を逆算して宮崎がこの出発時刻となった。日南線じたいはその前にも列車があるので、早い時間に乗って青島で途中下車して、日南海岸や鬼の洗濯板を見てもいい。あ、リアルならそうするか。

日南線はプロ野球のキャンプ地として聞く名前の駅も多く、運動公園(宮崎サンマリンスタジアム)はジャイアンツのキャンプ地で、青島はジャイアンツが例年必勝祈願をする青島神社がある。また日南市にある油津、南郷はそれぞれカープの赤、ライオンズのブルーに塗られた駅舎が建つ。また串間はかつてドラゴンズがキャンプを行っていた。日南線も昔に比べれば利用客も減少しているが、キャンプシーズンとなるとキャンプ地めぐりのプロ野球ファンも少しは乗るようである。

『最長片道』では、12月の九州で日暮れも遅いとはいえ、ほぼ暗い中を走っている。線路に近い漁港では、岸壁の電気に照らされた漁船群を見ている。志布志までの3時間は現在も変わらないが、夜となると淡々と走る。宮崎を出た時は4両編成が満席だったのが、志布志に着いた時は宮脇氏を含めて4人だけになっていた。

そして志布志で1泊。駅前の酒屋で旅館を教えてもらって向かうが、ちょうど忘年会の真っ最中。玄関で案内を乞うても旅館の人はなかなか出てこず、千鳥足の客が「玄関に客がおるじゃないか」と伝えてようやく投宿。地方の駅前旅館は地元の人たちの宴会による売り上げが多い例として、この後の宮脇氏の文章にも出てくるが、今でもこの旅館はあるだろうか。

志布志は、大阪からのフェリーが発着するため、ある意味鹿児島の玄関口の一つと言える。私も学生時代に志布志に上陸して、南九州を回ったことがある。しかし鉄道のほうは、『最長片道』当時は日南線で着くと大隅線、志布志線と分岐していたのが、民営化直前で廃止。路線図だけ見ると最果ての終着駅にも見える。

そして『最長片道』の翌朝。6時24分発に乗る予定にして、前夜のうちに宿のおかみさんに話してチェックアウトの手続きをしていたのだが、目覚めたのが6時23分という大失態をやらかす。まあ、列車が出る1分前に目覚めたというのは、話を盛っているのかもしれないが(「取材ノート」では、夜中の2時40分に一度目を覚まして「おれはどこにいるのか?」と考え、志布志にいるのだと改めて気づき、その後わけのわからん状況になったようだが)。

寝過ごしは仕方ないとしても、ここに及んで致命的なのは、実はこのきっぷの有効期限がこの日で最終日を迎えていて、後でも触れるが「継続乗車」の特例を使って枕崎まで行くことが厳しくなったことである。ひょっとしたら志布志から予定通りに進んでいれば、この日の最後に行き着いた駅でまだ何とかなったかもしれないが、もうダメである。

旅の途中、どうしても仕事等の都合で中断を余儀なくされた区間もあったが、風邪で1週間ロスしたり、果ては寝過ごしである。何度読んでも、詰めの甘い旅行記だなという感想を持つことになる。宮脇俊三という人を鉄道旅行や時刻表の神様のように崇める方もいらっしゃるようだが、所詮はこの程度のおっさん。おっさんで悪ければ一人の人間である。

この先の行程が半日遅れになるところだが、志布志でじっとしても仕方ないと、1時間後の大隅線の列車で、とりあえず鹿屋に向かっている。私は学生時代の旅で志布志に着いた後は逆に日南線に乗ったので、大隅線や志布志線のルートは未踏である。机上旅行では、日南線から鹿児島交通のバスで、かつての線路に近いルートで錦江湾に面した垂水を目指す。志布志から鹿屋を経て垂水へは概ね1時間に1本の頻度で出ており、事前に時刻表を確認しておけば普通に移動できる。

『最長片道』で鹿屋に着いた宮脇氏は、3時間半の待ち時間を使って大隅半島を南下した根占に寄り道している。根占の先は九州本土最南端の佐多岬である。ここは私も昔に訪ねたことがある。鹿児島の鴨池からフェリーで桜島を眺めながら垂水に渡り、バスに乗った。確か岬への道は有料道路ではなかったかと思う。根占という地名も、バスの乗り継ぎだったと思うが、記憶に残る。

私の机上旅行のほうは、曖昧な記憶で垂水に着く。鴨池に渡るフェリーは健在で、バスのルートもフェリー乗り場を経由する。また、かつての垂水駅跡も残っているようだ。垂水では少し時間があるので、そうしたところを回るのもよいかな。

それよりも、錦江湾を渡るフェリーとか、佐多岬とか・・・某人気番組の「カブの旅」のキーワードが登場するところ。旅の終盤をイメージさせるエリアだ。この机上旅行ではそこを路線バスで逆走する。さらに、桜島を目にしてゴールが近づくのを感じるところ、そこも逆走してさらに熊本県まで戻るのだが・・・。

国分から日豊本線で都城に向かう。『最長片道』では1時間の待ち時間を利用してバスで日当山温泉というところに行っているが、特に温泉に入るわけでもなく、単に時間をつぶしただけのようだ。「取材ノート」によると、次の急行「錦江6号」を待つ間、国分の駅前でソバとビール大瓶の食事。小瓶がないからという理由で大瓶に行っている。まあ、わからなくもない。

乗り継いだ「錦江6号」の車中にて、鉄道マニアかと思われるお婆さんにも遭遇しているが、本文では触れずにサラッと進む。机上旅行も鹿児島県から宮崎県に入り、都城に到着。『最長片道』ではとりあえず行けるところまでは行かなければならないので吉都線に乗り継ぐが、机上旅行はこのまま行っても行き詰まるので、この日はここでおしまい。

机上旅行でたどっているのは現在のJR最長片道切符の旅でもなく、各地でバスや第三セクターやタクシーに乗り、果てはレンタカーまで使っている。そもそも1枚のきっぷですらないのだから、有効期限など気にする必要はない(それを言っちゃあ、おしまいだろうが?)。ともかく気楽に残りのコースを進もう・・・。

 

※『最長片道』のルート(第32日続き、第33日)

(第32日続き)宮崎17:36-(日南線)-20:36志布志

(第33日)志布志7:23(寝坊のため。。)-(大隅線)-8:29鹿屋12:01-(大隅線)-14:43国分15:55-(「錦江6号」)-16:50都城・・・(以下続き)

 

※もし行くならのルート(第33日)

宮崎9:08-(日南線)-10:30油津10:46-(日南線)-11:57志布志12:44-(鹿児島交通バス)-14:42垂水港16:00-(鹿児島交通バス)-17:11国分17:19-(日豊本線)-18:17都城

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『最長片道切符の旅』をたどる机上旅行~第32日(肥後大津~宮崎)

2020年06月14日 | 机上旅行

2020年のリアル社会は各地で梅雨入り。これからは大雨にも注意が必要、熱中症にも注意が必要ということで、日頃の備え、体調管理も大事になってくる。

このところ、毎年のようにどこかの鉄道が長期にわたり不通になる事例が出ているが、『最長片道切符の旅』をめぐる机上旅行でも影響が出ているのがこれから進む豊肥本線である。2016年4月の熊本地震による土砂崩れで線路に被害が起こり、2020年の8月、お盆休みを前にようやく運転再開の運びとなった。リアルの運転再開後に机上旅行も再開すればよいことだが、後数日でゴールの枕崎に着くこともあり、このまま「強行」することにする。

そこで登場するのがレンタカーである。バス、タクシーと来て、とうとうクルマにまで手を出してしまった。レンタカー確保のために肥後大津からいったん熊本に戻った形で、このまま阿蘇駅まで乗ることにする。レンタカー会社もいろいろあるが、その中でトヨタレンタカーを選択する。阿蘇駅前にも営業所があり、同一県内であれば乗り捨ても無料である。時刻表によると、阿蘇駅から先の列車は始発が8時19分発で、その次は13時05分発までない。逆を言えば、13時前までに着けばよいことである。熊本駅前の営業所の8時の開店直後に出発すれば十分間に合う、何なら阿蘇周辺も回れるのでは・・・とも思う。

クルマで行くならどのルートか。国土交通省からルートマップが出ており、これによるとまず国道57号線で肥後大津まで行き、「ミルクロード」というのを通る。県道339号線、同12号線、同45号線を走るが、これが阿蘇の外輪山の北側を通り、沿道には牧場、草原が多いことからこの名前が着いた。何だかこれだけ見ると、豊肥本線を行くよりも楽しそうなルートに思うが・・。

さて、『最長片道』に目を向ける。急行「火の山」で一気に九州を横断するが、少しずつ外輪山が近づき、立野で三段式のスイッチバックを通る。私もかつて、この線を走っていたSL「あそBOY」に乗ったことがあり、SL列車でスイッチバックを上るというのに興奮したのを覚えている。

宮脇氏はこの時、立野のスイッチバックで「1号車普通車、2号車グリーン車、3号車・・・」と、窓から首を出して列車の編成を大きな声で確認する老人男性に出会っている。自身も内心では列車の様子もむちゃくちゃ気にしているのだが、そこはさすがに紳士なのか、あるいは性格なのか(やっていることは極道だが)、そこは黙っている。その老人男性を見て本文では「鉄道マニアが齢をとるとこうなるのだろうか」としつつ、「取材ノート」ではストレートに「頭のおかしい人あり」、「私もああなるか」と書いている。現在では鉄道ファンの認知度も世間では多少高まったと思うが、それでも一般の人から見たらちょっと敬遠したくなる存在と感じるところだろう。1978年ならばなおさらだ。

阿蘇からは机上旅行も豊肥本線に復帰する。阿蘇から宮地、波野という、九州でもっとも標高の高い区間を通る。何とか、九州横断も無事に行きそうだ。なお、豊肥本線の阿蘇までの区間で『最長片道』のペースが机上旅行を再び追い越した。九州に入ってから、かつての廃線をバスやタクシーで回ったり、また早い時間で宿泊したりするうちに『最長片道』のほうが追い付き、急行「火の山」で追い越した。

豊後竹田に到着。滝廉太郎の『荒城の月』で知られるところで、その岡城跡へは私は行ったことがないので、リアルの旅なら途中下車するところだが、机上旅行では『最長片道』に追い越されたこともあり、先に進む。

大分に到着。『最長片道』では5分の接続で急行「日南3号」に乗り継いでいる。机上旅行では特急「にちりん」が出たばかりなので、1時間あまり大分で待ちとなる。ここからの大分、宮崎両県だが、私もリアルでこのところすっかりご無沙汰である。大阪からなら新幹線とソニック、にちりんの乗り継ぎ割引きっぷもあるし、フェリーという選択肢もある。行ってみたい。

大分の工業地帯を過ぎ、臼杵、佐伯といった複雑な海岸線の区間を行く。大分と宮崎の県境にある重岡~宗太郎も通過。この区間、特急は1時間に1本通過するが、各駅停車は1日にわずか1本しかないことで、その筋では知られている。例えば、その名前も一風変わっている宗太郎駅で、紙の時刻表でもいいしネットの乗り換え検索でもいいが、2020年のダイヤでは、延岡方面は6時54分発、佐伯方面は6時39分発、20時07分発、以上である。もっとも、こういうダイヤに目をつけて、延岡から朝の佐伯行きで6時39分に宗太郎駅に来て、6時54分発で延岡に戻るという剛の者もいるとかいないとか・・・。

かつて高千穂線~高千穂鉄道が分岐していた延岡を過ぎ、日向市に入る。日向と聞いて思い浮かべるのは、かつての近鉄バファローズのキャンプ地である。私はプロ野球のキャンプ地訪問というのはしたことがないのだが、宮崎県は沖縄、高知と並んで(キャンプする球団や場所はいろいろ変わっているが)キャンプ地として人気である。

一方『最長片道』では日向市にあるリニアモーターカーの実験線に目が行っている。本文では「いずれ実用化される日が来るとして、その頃の日本の交通体系はどんな具合になっているのかしらん、と思う。私が生きているかどうかのほうが問題だが」としている。宮脇氏が亡くなったのは2003年。そして2020年だが、実験線は宮崎から山梨に移り、2027年の東京~名古屋の開業を目指して実際の建設も一部では進められているが、ここに来て難航している。一部の地元自治体との間で環境対策をめぐって対立が出ているうえに、このコロナ禍で現場がストップして、工事そのものにも影響が出ている。リニア建設が政府主導からいつの間にかJR東海の自己負担に変わったことで、企業としての判断も出てくるだろう。

宮崎に到着。『最長片道』では時刻が17時前、九州ではまだ日がある時間帯ということもあり、宮脇氏は宮崎に泊まるかこの先の日南線に乗るか迷い、結局日南線で志布志に向かう選択をしている。一方の机上旅行では夜のそれなりの時間での宮崎到着。ここは迷いなく宮崎に宿泊である。やはり夜は地鶏料理となるか・・・。

 

※『最長片道』のルート(第32日続き)

(第32日続き)熊本9:27-(「火の山1号」)-12:54大分12:59-(「日南3号」)-16:51宮崎・・・(以下続き)

 

※もし行くならのルート(第32日)

熊本-(レンタカー)-阿蘇13:05-(豊肥本線)-13:51豊後竹田13:52-(豊肥本線)-15:06大分16:05-(「にちりん19号」)-19:23宮崎

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『最長片道切符の旅』をめぐる机上旅行~第31日(伊万里~肥後大津)

2020年06月13日 | 机上旅行

1978年の『最長片道切符の旅』を追いかける机上旅行も残りわずか。第31日は、モノレールを除く普通の「線路」を走る鉄道としては日本最西端の松浦鉄道である。『最長片道』では博多から筑肥線~唐津線~筑肥線と通ってきた直通の佐世保行きで松浦線に入っているが、現在は伊万里駅舎の改築にともないその線路も完全に分断されている。

JR発足直後の1988年に第三セクターに転換したが、国鉄時代と比べて駅の数、列車の本数も格段に増えている。早い時間の列車ということで、6時30分発の2番列車に乗り込む。まずは伊万里湾に面した工場群を抜け、松浦湾に出る。この辺りの海岸線も複雑に入り組んだところである。自然の景色があるかと思えば、巨大な火力発電所のすぐ横も通る。駅間の距離も短いので、2~3分も走れば次の駅に着く。

日本最西端の駅(モノレールを除く)であるたびら平戸口を過ぎる。平戸も観光で訪ねたことがあるが、海の景色、教会、素朴な港などなかなか面白いところ。また機会があれば松浦鉄道に揺られて行ってみたい。

そうした松浦線、松浦鉄道だが、かつては松浦線からの支線がいくつかあった。いずれも炭鉱からの石炭を運ぶための線路で、そうした需要がなくなるとあっさりと廃止された。『最長片道』の時にはボタ山や無人の炭鉱住宅など、宮脇氏の気が滅入るくらいの名残があったようだ。炭鉱と鉄道というと北海道や筑豊のローカル線をイメージするが、長崎県も炭鉱の多いところだった。世界遺産の観光スポットとして人気の軍艦島も炭鉱の島である。

佐世保に到着。机上旅行ではまだ午前中だが、『最長片道』では夕刻の時間帯である。佐世保線からの大村線は大村湾の近くを通る眺めのよい路線だが、この時は大村湾に差し掛かる前に日が落ちたようである。乗っていたのはDD51が牽引する客車列車。この時海を照らしたのは、太陽ではなく車内の灯りだったようだ。途中、列車交換のため数分停車した駅で、DD51の姿に改めて感心している。私も乗ってみたい。

諫早に到着。『最長片道』では夜行急行の新大阪行き「雲仙」に乗車している。寝台やグリーン車もない座席夜行だが、その分、佐賀や博多までの利用客向けの列車としても使われていたようだ。宮脇氏も、湘南電車や横須賀線のグリーン車よりも乗り心地がいいとご機嫌。しかし車内販売での夕食に当てにしていた駅弁は売り切れ、缶ビール、ワンカップ、チクワでしのいでいる(他にもゆで卵、ポテトチップスもあったようで、宮脇氏は一応栄養を気にして食べなかったが、こういうのを客車に揺られて食べるのもよいものだ)。

『最長片道』の第31日は佐賀で終了。駅からやや離れたホテルニューオオタニに宿泊している。

明けて第32日は、佐賀から瀬高までの佐賀線に乗車。6時49分で、12月の九州ではまだ夜が明けていない。この佐賀線も、国鉄民営化直前の1987年3月に廃止されている。机上旅行では西鉄柳川まで西鉄バスに乗ることにする。バスは1時間に1~2本運転されているから、国鉄時代より利便性はよいのではないだろうか。

佐賀線の名所として昔の写真でも出てくるのが筑後川に架かる橋梁。舟運との共存のために可動式なのが特徴である。佐賀線の廃止後も歩行者用の橋梁として現役で、現在は国の重要文化財にも指定されている。柳川行きのバスの途中の停留所からも歩いて行ける距離のようなので、途中下車して見物するのもありだろう。

バスは西鉄の柳川駅に向かうが、佐賀線は柳川の町はずれを通っていたようだ。当時の筑後柳河駅は、先ほど亡くなった大林宣彦監督の『廃市』という映画の舞台にもなったところ。

西鉄柳川からは堀川バスというローカルバス会社の路線である。これで瀬高まで向かい、鹿児島本線に合流する。九州新幹線の開業で、鹿児島本線もここまで来ると通勤通学輸送が中心となる。その中で机上旅行の時刻表を見ているのだが、昔に比べて瀬高から大牟田方面の列車が減っているように感じる。私がリアルに九州に鉄道旅行していた時も、鹿児島本線の熊本方面へは「快速 大牟田、荒尾行き」というのが頻繁に出ていたと記憶しているが、今は朝夕を除いてそうした運転がなく、快速は久留米やその一つ先の荒木止まりとなっている。むしろ、鳥栖から瀬高、大牟田、荒尾も過ぎて一気に八代まで行く鈍行が中心となっている。

熊本県に入り、田原坂を過ぎて熊本に到着する。『最長片道』ではこの後急行「火の山1号」で豊肥本線で一気に九州を横断して大分に向かっているが、机上旅行ではここで大きな災害の影響を受けることになる。2016年4月に発生した熊本地震である。4月14日の「前震」、4月16日の「本震」、いずれも深夜時間帯に最大震度7を計測した。熊本城の倒壊や、阿蘇地方での土砂崩れの映像はまだ記憶に新しいところだ。

鉄道も特に豊肥本線、そして立野から分岐する南阿蘇鉄道に大きな被害を及ぼした。2020年5~6月の机上旅行では、豊肥本線は熊本近郊で空港にも近い肥後大津までは行けるが、肥後大津~阿蘇間は不通。ただ、5月にJR九州から発表があり、2020年8月8日から同区間の運転が再開されるとのことである。九州横断、そして観光路線の位置づけもあるので、JR九州としても(日田彦山線とは違って)この区間は復旧させたかったのだろう。立野のスイッチバックも同じように通るのだろうか。

一方、立野から分岐する南阿蘇鉄道は、終点の高森~中松間は運転再開し、トロッコ列車も走っているが、立野からの区間はようやく復旧工事に着手したところで、まだ全線での再開目処は立っていない。

8月まで待てば机上旅行でも(その先のリアル旅行でも)豊肥本線で阿蘇を横断することができるが、6月時点ではどうするか。列車代行バスはない。となればここで中断とするか、それとも究極の奥の手を使うか(リアルに使えるのかどうかはわからないが)。

机上旅行ではいったん肥後大津まで進み、ここで折り返して熊本での宿泊とする。馬刺し、有明の魚、辛子レンコンを味わい、地震からの復興に向かっている街を応援することにしよう・・・。

 

※『最長片道』のルート(第31日続き、第32日)

(第31日続き)博多12:09-(筑肥線~唐津線~松浦線 伊万里通過)-17:24佐世保17:30-(佐世保線~大村線)-19:10諫早19:21-(「雲仙」)-21:14佐賀

(第32日)佐賀6:49-(佐賀線)-7:35瀬高7:47-(鹿児島本線)-9:11熊本9:27-(「火の山1号」)-12:54大分・・・(以下続き)

 

※もし行くならのルート(第31日)

伊万里6:30-(松浦鉄道)-9:05佐世保9:18-(佐世保線~大村線快速)-10:29諫早10:38-(「かもめ16号」)-11:35佐賀12:02-(西鉄バス)-12:50西鉄柳川13:26-(堀川バス)-13:43瀬高14:19-(鹿児島本線快速)-15:19熊本15:27-(豊肥本線)-16:05肥後大津

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『最長片道切符の旅』をめぐる机上旅行~第30日(直方~伊万里)

2020年06月12日 | 机上旅行

1978年、宮脇俊三の『最長片道切符の旅』、舞台は九州に移る。

42年前の国鉄と2020年のJRを比べてみると、新幹線の距離は各方面に延びた一方で、赤字ローカル線の多くが廃止され、バス転換または第三セクターへの移管ということになっている。また昨今では、新幹線を新たに開業させる代償として、並行する在来線をJRから切り離し、沿線の県単位に第三セクター路線を運行させるということになっている。東北本線、信越本線、北陸本線、鹿児島本線などがズタズタに切り裂かれている。

それでも、まだ鉄道として残っているところは(採算の面はさておくとしても)まだ存在感を維持できているのかもしれない。ただ、廃止後に転換されたバス路線も廃止・統合されるところもあるし、近年激甚化している災害に遭った後の町づくりの中で鉄道の存続をあきらめるところも出ている。特に北海道や九州のような、もともとの鉄道会社の経営基盤が厳しいところでそうした事態が地元を直撃しているように見受けられる。

机上旅行の第30日。まだ『最長片道』よりは1日早いペースで来ているが、そろそろ九州の鉄道の現況の影響を受けそうな気配である。

まず、『最長片道』の第30日、直方で夕食を取り、伊田での待ち時間で立ち寄った駅前の一杯飲み屋で、田川の住宅がかつての坑道跡の空洞のために陥没しやすいという話を聞いている。その後で暗闇の中、それでも決められた所作を守って運行する運転士や駅員たちの姿に感動した後、日豊本線との合流駅である行橋に着く。忘年会シーズンということで行橋の駅前には帰宅のタクシーを待つ客が並ぶ様子を見て、日田彦山線との分岐駅の城野はそのまま通過して小倉で宿泊している。本文でも「長かった一日が終った」とあるが、確かに島根県の益田から山口県を縦走し、九州に入って筑豊の炭鉱線区をジグザグに移動した一日だったから長く感じたことだろう。

・・一方の机上旅行は、直方で一泊を選択し、それでも6時台の列車でまずは行橋に向かう。筑豊の線区の中で、伊田線、田川線、糸田線を引き取る形で発足した平成筑豊鉄道の区間である。

10年近く前に平成筑豊鉄道に乗る機会があったのだが、車両や運行形態は第三セクターらしくまとまったものかなということで乗ったが、国鉄時代からの開業当初と比べて駅の数が増えているとともに、当時からはやっていた「ネーミングライツ」を取り入れていたのが印象的だった。

その一つが「MrMax田川伊田」とか、「神田商店上伊田」とかいうものだったが、今でも印象に残っているのが「れいめい拳.com崎山」という駅名である。2020年現在ではスポンサー契約も切れて元の「崎山」駅になっているそうだが、乗車した時は、「駅の名前に『ドットコム』がつく時代になったのか~」とか、「そもそも『れいめい拳』とは何ぞや」という感想を持ったのを覚えている。「れいめい拳」は企画・宣伝共同組合の名前とあるが、他にはいわゆるスピリチュアルに関する事業もやっているようで、見る角度によっては妖しい団体のようにも見えるのだが・・。

一時はこうしたスポンサーがついた駅名も多かったようだが、2020年現在はその数も内容もだいぶ縮小しているように見受けられる。スポンサーとしての効果が乏しいのか、そもそもそうした費用を出そうという企業・団体が減っているのか。

行橋に着いて、日豊本線を北上する。『最長片道』では宿泊のために城野を通過して、ダブリ乗車となる小倉に行って翌日に折り返しているが、机上旅行では午前のそれなりの時間ということで城野で乗り換えとする。『最長片道』のような小倉駅周辺の「トルコ街」は見なかったことにして。

日田彦山線を南下する。北九州の市街地を抜けると、石灰岩の山肌を露出してワイルドな景色をさらす香春岳に出る。一時は筑豊の石炭のボタ山と対峙するようにそびえていた香春岳も、セメントの原材料として山肌がだいぶはぎ取られたようである。福岡県のこの辺り、そしてセメントといえば・・・もうおわかりですよね。あの財務相の地盤に入ったということ。

普通に列車に乗るぶんには、日田彦山線をこのまま香春~田川伊田~田川後藤寺~豊後川崎~添田とたどるのだが、田川伊田、田川後藤寺、豊後川崎で前日のルートと重なってしまう。『最長片道』ではここで登場するのが添田線である。香春から添田までをショートカットするように走り、かつ交差する田川線との連絡駅はないのでこのルートに登場した。当時のダイヤでは、日田彦山線の日田行きが8時09分に香春に到着して、8時13分発の添田線経由の添田行きというのがある。宮脇氏はこの列車に乗り換えて、添田には日田彦山線の列車より5分早く到着している。そして香春まで乗ってきた日田彦山線の列車にそのまま乗り換えている。

『最長片道』では、香春で下車する時にわざと座席上の網棚に新聞紙を乗せている。そして添田で再び乗車した時にその新聞がそのまま乗っていたのを確認している。別に車内で何かが起こったわけではないが、ちょっとした「トリック」である。

こう書くと、添田線というのがバイパス線として重宝された歴史があったのかと思わせるが、実態は真逆だった。石灰石や石炭を運ぶ路線として日田彦山線のバイパス線の役割は確かに担っていた時期はあったが、田川の中心地である伊田や後藤寺を経由しなかったために旅客、貨物とも利用客は少なく、ローカル線の赤字係数としては北海道の線区とともにワーストの常連だった。民営化を待たず1985年に廃止されている。

2020年の机上旅行では香春から添田までバスで結ぼうかと検索したが・・・転換後のバス路線も現在は廃止されている。前日の上山田線もそうだったが、自治体のコミュニティバスは走っているが限られたエリアの中を、1日わずかな本数が結んでいるだけである。自治体のアリバイ作りであるかのような運行でしかない。・・・そうなると、香春から添田まではまたしてもタクシー利用となる。現在の車道に面して、あるいは少し離れたところにかつての遺構や記念碑も残っているそうだから、その辺りをちらりと眺めるとするか・・。

日田彦山線との合流駅である添田に到着。よし、ここから鉄道の旅再開だ!・・・と意気込むところだが、実はこの先も列車は走っていない。

まだ記憶にも新しい2017年の九州北部豪雨。彦山川沿いの一帯で大きな被害を受け、日田彦山線の線路も路盤の崩壊、盛り土の流出、橋脚の破損などもダメージが大きかった。その後、同じように被害を受けたが復旧工事が行われた国道、県道を使ってのバス代行が続いている。

そんな中、復旧費用が巨額にのぼること、そして復旧した後の十分な利用客が見込まれないことから、JR九州としては単独での復旧は難しいとして、地元自治体にも何らかの負担を求めるための協議に入った。議論も長引いたが、先日、東日本大震災後の大船渡線・気仙沼線と同様のBRTによる復旧ということで話がまとまった。一部の自治体は最後まで「鉄道廃止」に難色を示していたが、福岡・大分の県境にある釈迦ヶ岳トンネルを含めた日田彦山線の休止区間の線路跡を最大限に活用することで何とか妥協したという。災害によって鉄道の維持を断念した事例の一つとして取り上げられている。

机上旅行もようやく昼を回ったところだが、この先は一気に西九州に向かう。久大本線の夜明に到着して、『最長片道』では鹿児島本線に乗り入れて博多まで向かう鈍行に乗っている。こちらは久留米まで気動車で出て、快速に乗り換える。現在は久留米から博多は新幹線で2駅の区間で、在来線の快速で30分、新幹線なら18分で到着である。わざわざ久留米から博多まで新幹線に乗る客がどのくらいいるか知らないが。

博多からは筑肥線である。もっとも、『最長片道』当時と現在では路線の姿はまるっきり変わっている。

筑肥線はもともと博多~伊万里間の私鉄路線だったが、後に国有化された。『最長片道』当時は非電化の路線だったのが、1983年に福岡市営地下鉄との相互直通運転を開始し、並行する博多~姪浜間の廃止、姪浜~唐津・西唐津間の電化、唐津駅近辺の線路付け替えということがあった。1993年に博多~福岡空港間が開業して、福岡の玄関路線としての機能も持つようになった。現在は日中ダイヤで、地下鉄の半数が姪浜行き、もう半分のうち4分の3が筑肥線の筑前前原行き、残りの4分の1が西唐津に向かうという運転系統である。

『最長片道』の時は筑肥線から松浦線(現・松浦鉄道)を経由して佐世保に向かう鈍行に乗っている。8両編成で、前4両が伊万里行き、次2両が有田行き、そして後2両が佐世保行きということで、宮脇氏は佐世保行きの車両に乗る。博多を12時09分に出発して、佐世保着は17時24分。現在なら、海辺の区間を走る列車として、水戸岡デザインの直通気動車を走らせるかもしれない(地下鉄に乗り入れるのは厳しいだろうが)。

この列車の通路向かいのボックス席にはおっさんが陣取っていて、窓枠に缶ビール、缶コーヒー、コーラ、ウイスキーの小瓶、せんべい、ゆで卵、ちくわ、駅弁、もう一つ何かを売店のように並べている。そしてまずゆで卵、コーヒー、ウイスキーの順で口にしている。ただそれらも、車窓が糸島半島を抜けて虹の松原に沿って走るうちに全て消えたとある。現在の「呑み鉄本線」など足元にも及ばない豪快なスタイルである。つい最近まで、特に地方にいけばこうした「ボックス席宴会」というのはちょくちょく見られた光景。

『最長片道』当時は東唐津だったが、現在は線路の付け替えもあり、唐津で分岐する。唐津~山本は唐津線の上を走り、山本から伊万里まで再び筑肥線となる。かつての歴史の名残化、唐津~山本は地方交通線、山本~伊万里は幹線の運賃体系となっている。列車の本数でいえば唐津線の佐賀行きが、筑肥線の伊万里行きの倍あるのだが。

机上旅行では、18時を回った伊万里でこの日の行程を終了する。この先は松浦線を受け継いだ松浦鉄道に入るので、ちょうどきりがいいという判断である。伊万里といえば焼き物のイメージがあり、地図をよく見ると深く切り込んだ入江の奥にある町だが魚は名物なのだろうか。宿泊は問題ないとして、玄界灘、対馬沖の魚などいただける店があるといいのだが、果たしてどうだろうか・・・。

※『最長片道』のルート(第30日続き、第31日)

(第30日続き)直方20:30-(伊田線)-20:56伊田21:41-(田川線)-22:20行橋22:57-(日豊本線 城野通過)-23:31小倉

(第31日)小倉7:19-(日豊本線~日田彦山線 城野通過)-8:09香春8:13-(添田線)-8:35添田8:40-(日田彦山線)-9:32夜明9:34-(久大本線~鹿児島本線)-11:22博多12:09-(筑肥線~唐津線~松浦線 伊万里通過)-17:24佐世保・・・(以下続き)

※もし行くならのルート(第30日)

直方6:30-(平成筑豊鉄道)-8:11行橋8:20-(日豊本線)-8:46城野9:32-10:05香春-(タクシー)-添田11:30-(代行バス)-12:45夜明13:22-(久大本線)-14:13久留米14:57-(鹿児島本線快速)-15:27博多15:51-(福岡地下鉄)-16:08姪浜16:09-(筑肥線)-16:50唐津17:32-(唐津線~筑肥線)-18:24伊万里

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第40番「雲龍院」~西国四十九薬師めぐり・19(皇室とも縁ある御寺にて)

2020年06月10日 | 西国四十九薬師

さてこれから雲龍院に向かうが、その前に本寺にあたる泉涌寺に向かう。真言宗泉涌寺派の総本山にして、江戸時代の歴代の天皇の陵墓を有する皇室の菩提寺でもあるところなので、素通りというわけにもいかない。

山門をくぐり、まずは左手にある楊貴妃観音堂に向かう。世界三大美人の一人(今、こういう言い方をしたらその筋からクレームがつくのだろうな)とされる楊貴妃をモデルとしたという観音像で、中国の南宋時代にもたらされたものとされるが、もう一つ「ひげを生やした観音像」という言われ方もする。端正な顔立ちにひげというのが対照的というので紹介されることが多いが、貼り紙では「口のまわりに見えるのはひげでなく、慈悲を説く観音の口の動きを表している」とある。

隣接して資料室があり、鎌倉時代に伽藍を造営し、泉涌寺を現在の形に復興した月輪大師俊芿(しゅんじょう)の肖像画や、鎌倉時代以降の皇室の系図と連動した泉涌寺の歴史について触れられている。今の感覚だと皇室というのは神道とのつながりが強いように思われるが、明治以前は神仏習合の世の中だったし、天皇が後に出家して法皇を名乗ったり、皇室から寺の住持が出るくらい(門跡寺院)だから、歴代天皇の葬儀を一貫して執り行ったのもうなずける。現に、明治天皇の父である孝明天皇の葬儀も泉涌寺で行われ、御陵も境内にある。

正面にあるのは本堂である仏殿。南宋の禅宗様で、徳川4代将軍家綱の援助により再建された。天井に雲龍の絵が掛けられ、正面には釈迦如来(過去)、阿弥陀如来(現在)、弥勒如来(未来)の三体が祀られている。ここで手を合わせる。

仏殿の背後にあるのは舎利殿だが、扉が閉められており、外には10数足の靴が置かれている。中からは講話なのか法話なのか話し声が聞こえ、笑い声も起きている。昔の建物だから風通しはいいのだろうが、密になっていやしないか他人ごとながら心配してしまう。

歴代天皇の位牌を祀る霊明殿を外から見た後、特別公開の御座所に入る。かつての御所の建物を移築したもので、廊下伝いに女官の間や勅使の間、皇族の間など、さまざまな種類の襖絵が並ぶ部屋を見る。

そして奥の庭園に出るのだが、そこにあるのは玉座の間。天皇・皇后が寺に来られた時に休息所として使う部屋である。撮影禁止のため画像はないが、現在の上皇・上皇后さまが来られた時の写真もあるし、直近では2019年(令和元年)11月、天皇陛下が即位の報告で奈良・京都を訪ねた時に泉涌寺のこの玉座で休憩している。この時は橿原の神武天皇陵、桃山の明治天皇陵、そしてこの孝明天皇陵と、要は先祖代々のお墓参りである。泉涌寺も現在は寺としては独立した存在で、特に戦後は別に宮内庁から費用をいただいているわけではないが、やはり歴史的に特別な存在であることがうかがえる。昭和の時に「御寺泉涌寺を護る会」というのが発足して、かつては三笠宮殿下、そして現在は秋篠宮さまを名誉総裁として活動している。皇室の内廷費からもいくらか援助が出ているそうだ。

さて、泉涌寺の境内の脇道から雲龍殿に向かう。境内としてはつながっているが拝観料はそれぞれ申し受けるというところだ。少し坂を上ると山門があるが、門の石段の外から足場が組まれている。2018年9月の台風21号の被害で一時拝観を休止していたそうだから、その修復工事が今も行われているのだろうか。

拝観休止といえば、緊急事態宣言の発令を受けて、雲龍院は4月17日から休止となり、再開したのは5月26日からのことである。本坊というか、屋敷の玄関のようなところに出て、ここで拝観料を納める。西国薬師のバインダー式の朱印も先に申し出ておけば帰りに受け取ることができるというのでお願いする。中には数組の拝観客がいる。

パンフレットとともに、「雲龍院の『へぇ~』ポイント」というチラシも一緒に渡される。拝観順路が書かれ、その部屋の「へぇ~」ポイントが豆知識のように紹介されている。その思惑通り、この後建物を回るたびに「へぇ~」とうなずくことになる。

まずは蓮華の間。この部屋は撮影不可かと思い画像はないのだが(実際は撮影してもよかったようだ)、障子に4つの窓が取られている。「色紙の窓」という。部屋のあるポイントに座布団が敷かれており、そこに座って障子越しに窓の外を見ると、庭の椿、灯籠、楓、松が額縁に収まった四季の色紙のように見えるという。これはよく考えたものだ。

続いては庭園に面した大輪の間。椅子があり、「瞑想石」というのが二つ置かれている。ここで阿字観を行うとある。椅子に腰掛け、石をそれぞれ足の土踏まずに当てる。そして庭園のほうを見ながら、ゆっくりと息を吐くように「阿」の音を口にする。そして意識を足元の石に集中させ、ゆっくりと息を吸う。真言密教の瞑想法の一つで、心を磨き高めることができるという。今なら健康法、ダイエットとして取り入れられているロングプレスのほうがイメージしやすいかな。私もちょっとやってみるが、ちょっとやったくらいで効果がある・・・というものではない。またこの部屋には、大石内蔵助が山科に隠遁していた時に書いたとされる「龍淵」の額が保存されている。「龍淵に潜む」という古来中国の言葉があり、秋分の頃を表す季語の一つだというが、かつては雲龍院に池があったそうで、その池を龍のすみかになぞらえたのだという。

そして霊明殿に向かう。雲龍院は南北朝時代、北朝の後光厳天皇の勅願で開かれ、歴代の北朝方の天皇の帰依を受けて発展した。現在もその位牌を残している。また庭に菊の紋が描かれ、その真ん中に灯籠がある。これは徳川慶喜が奉納したものという。

本堂にあたる龍華殿に出る。本尊の薬師如来はこちらに安置されており、他に誰もいないのをいいことに近くに寄ってお勤めとする。

一度玄関の前を戻り、台所に向かう。ここの厨子に祀られているのが「走り大黒天」。大黒天は確か米俵の上に乗っているのが一般的のように思うが、ここでは大きな袋をかつぎ、わらじ履きで、何か叫ぶかのような表情で駆け出している姿を描いている。一刻も早く人々に福を授けようという思いで駆け出そうというのだが、にこやかなイメージの「大黒さん」というよりは憤怒の表情である。台所に祀られているのも何か意味があるのだろうか。

再び客殿に戻り、一番奥の間にある「悟りの窓」を見る。円形に切られた格子の向こうの景色を見る。これも額縁に入れられた絵画のようだが、自然の風景である。ちょうどその格子を正面に見る位置に座布団が置かれているが、うーん、これが「悟りの窓です」と言われても、一介の凡人に理解できるものではない。窓に映る自然を自分の心がどう捉えるかという意味なのかな。

寺としては泉涌寺の別院ということもあって真言宗なのだが、館の造りには、これは泉涌寺の仏殿もそうだが禅の心があふれているように感じる。また、「色紙の窓」や「悟りの窓」を見るベストの位置だけに座布団が置かれているのを見ると、あまり団体で賑やかにおしかけるよりは、一人静かに楽しむのが合うようなスポットであるように思う。他に訪ねていた人も静かに参詣、鑑賞していた。

さて、これで西国四十九薬師めぐりの次のサイコロとする。「悟りの窓」の手前の小部屋に座卓があり休憩できるので、ここで庭を眺めながらの場所決めである。

1.池田(久安寺)

2.高野山(龍泉院、高室院)

3.安土(桑實寺)

4.伏見(法界寺、醍醐寺)

5.三田(花山院)

6.河南町(弘川寺)

高野山という遠方や、初めての安土・桑實寺(もしここが出れば、西国第32番の観音正寺とセットになる)という出目もある。その中で出たのは「6」の弘川寺、南河内の近場である。

雲龍院を後にして、東福寺の駅に戻る。行きは京阪で来たが、帰りはJR奈良線に乗ることにする。それも京都に出るのではなく、逆に奈良方面に下る。やって来たのはかつての国鉄型の205系。関西ではかつて東海道本線、山陽本線で走っていたが、後に阪和線、そして現在は奈良線とまだまだ現役である。こちらも混雑することなく、宇治、城陽といったところを経由して奈良に至る。
 
これからも適切な予防措置、人との距離を持っての動きということになるだろう。それはいいのだが最後に一言。
 
この状況において、仏教は何をしたのか? 札所・霊場は世の中の不安を和らげるのに何か手を差し伸べたのか? 何か共感できることをしたか? 自粛自粛自粛自粛、納経所閉めます、そもそも寺の門を閉めます、寺に来ないでください、仏を拝まないでください、四国に来ないでください、弘法大師が来るなと言ってます、徳島ナンバー以外のクルマには容赦なく制裁を加えます、行政もそれを認めるどころか率先してやってます(まあ、弘法大師も自分に逆らう者に対しては容赦しない輩だったし)、岡山に来たことを後悔させます(このところヤクザの抗争も活発化しているし、県知事は「カモンベイベー」とか浮かれているだけで)、人々の救い?知ったことか、僧侶の健康、もとい金儲けが第一じゃ・・・。
 
・・・こっちも言いたいことはたくさんあるわ。
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第15番「今熊野観音寺」~西国三十三所めぐり3巡目・16(札所めぐり再開!)

2020年06月09日 | 西国三十三所

新型コロナウイルス感染拡大防止のための緊急事態宣言が解除され、その後も一部地域での集団感染や、「夜の街で接待をともなう飲食店」での感染もあり「東京アラート」というのも出ているが、世の中としては少しずつ活動を取り戻しつつある状況だ。もっとも、働き方や日常生活において一人ひとりが対策を取る必要があり、まったく以前のとおりそのままに、とはいかないのも実情である。

休業要請が解除されたこともあり、実は先日、とある居酒屋に久しぶりに行ってみた。飲み会ではなく一人で行ったのでカウンターに腰かけたが、固定式の椅子は1脚ずつ開けて座るようになっていた。またこれまでは店員がタオル式のおしぼりを手渡してくれたり、塗り箸を持ってきてくれたのが、ビニールに入った紙式のおしぼりと割り箸に変わった。いずれもコンビニのサービスでつくのと同じようなものである。

テーブルを見ると、以前は共用で置かれていたつぎ足し用の醤油や七味といった調味料もなく、例えば刺身を注文すると醤油も皿に入れて持って来る。そもそも、メニューも以前と比べて絞っての提供である。店員はもちろんマスク着用で、それも含めて店員と客の接触を少しでも減らす、またテーブルの共用品に接触することも減らすという対応である。

私もさすがに長居する気も起こらず、最初に注文した一通りだけいただいて店を出たが、やはり一部ではテーブルに密集して、久しぶりの「オフライン」飲み会で発散するのか、大きな声で騒ぐグループもいたりした。まあ、そうする人が出ても仕方ないだろう。

・・さてようやく本題。

緊急事態宣言の1回目の延長期限とされた5月31日を過ぎ、6月に入ったことで、同じ関西(厳密に言えば大阪府から外に出ることにはなるが)の西国三十三所めぐり、西国四十九薬師めぐりも再開とする。札所のほうも、一部特別拝観や行事などの中止という状況にあるものの、通常の参詣、納経所の受付も再開されている。

目的地は、西国四十九薬師めぐりの続きである京都東山の雲龍院。場所を見ると、御寺泉涌寺に隣接する塔頭寺院である。それならば、同じ塔頭寺院で西国第15番の今熊野観音寺も一緒に訪ねることにしよう。

梅雨入りを前にした6月7日、淀屋橋から京阪特急に乗車する。この特急に乗るのも久しぶりである。いろいろ案内を見ると、ひらかたパークが5月29日から営業再開とある。ただし入場制限をかけており、チケットは事前にローソンチケットのみでの販売という。また、京都競馬場の入場中止により、競馬開催日の淀駅の快速急行・急行の臨時停車を取りやめるという案内もある。日曜といえば京都方面に向かう客で列車も混雑するのだが、この日はそこまでもなく走っていく。

丹波橋で普通に乗り換え、東福寺に到着。これまで西国めぐりで降りているが、そういえば駅名の東福寺には一度も行っていないなと思いつつ、今熊野観音寺を目指す。道はわかりやすく、途中からだらだらとした上り坂である。マスクを着用していると暑く感じる。

熱中症防止との関係で、屋外で他に人がいなければマスクを取ってもいいという指針もあることから、時折マスクを外して、外気を取り込む。結局この日の気温は30度近くまで上がったのだが、まだカラっとしているので外気を取り込んだり、木陰に入るとまだ涼しく感じられた。ただこれから蒸し暑い時季になるとしんどくなるだろうな・・。

泉涌寺の山門をくぐり、いくつかの塔頭寺院の前を過ぎると今熊野観音寺へ続く道に出る。

「悪病消除」の看板も立てられている。この道を下ると青もみじの中を行く。トレッキング姿の人も何組か見かける。この辺りは京都トレイルの東山コースと重なっており、緊急事態宣言の解除を受けてこうしたトレッキングの方も増えていることだろう。

寺に到着。子護大師の前で一度深呼吸した後、境内にあがる。人出はそれほど多くない。

本堂の中でのお参りも可とのことで、横の障子扉から中に入る。こちらのお勤めもマスクを着用したままで、やはりいつもと比べて息継ぎのタイミングも早くなる。こちらの観音は「頭の観音様」としての信仰を集めている。熊野詣が大好きだった後白河法皇だが、日々の心労による頭痛も持っていた。そこで今熊野観音に祈願したところ、法皇の枕元に観音が現れ、頭痛が取り除かれた。

そこから頭痛封じの観音様となり、派生してぼけ封じや、学業成就といった「頭」に関するご利益があるという寺院になった。

このお参りでの「密」といえば、納経帳の朱印で何人かが列をなしていたくらい。西国だけでなく、ぼけ封じ観音めぐり札所の朱印をいただく人もいた。

また、緊急事態宣言の影響で延期されていた京都国立博物館での西国三十三所関連の特別展だが、7月23日~9月13日と決まったことをうけて、新たなポスターも貼られていた。これも期間中のどこかで訪ねることにしよう。

これで西国3巡目も一つ進んだところで、もう少し坂道を上る。この後で雲龍院を目指すが、せっかくなので御寺泉涌寺も参詣することに・・・。

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『最長片道切符の旅』をめぐる机上旅行~第29日(益田~直方)

2020年06月07日 | 机上旅行

1978年の宮脇俊三の『最長片道切符の旅』をめぐる机上旅行。舞台は中国地方からいよいよ九州に入る。

『最長片道』では朝の急行「あきよし」に乗車している。この急行、江津発天ヶ瀬行きとある。天ヶ瀬とは大分県の久大本線の駅だが、そんな列車があったのか。かつ宮脇氏が「好都合な列車」としているのは、まず山陰本線を走り、長門市から美祢線に入って厚狭に出て、山陽本線から九州に入るためである(「あきよし」はその後小倉から日豊本線、日田彦山線、久大本線で天ヶ瀬に至る)が、長門市~下関は美祢線経由のほうが「遠回り」になるので、「最長片道」にはうってつけである。

益田からの区間は山陰本線の中でも海岸風景のきれいなところだが、机上旅行では朝の6時前に益田を出発、日の短い季節ならまだ夜が明けない時間である。現在の山陰本線の益田~下関間は特急、急行は走らず鈍行のみで、また長門市からの美祢線も2時間に1本しかない。この先の行程を考えての始発での出発である。

『最長片道』では萩で客車列車の鈍行とすれ違う。門司5時20分発、福知山23時51分着という、当時最長距離の鈍行列車。かつてはこうした鈍行が走っており、宮脇氏も後にこの列車に18時間揺られることになる(『旅の終りは個室寝台車』所収)。現在、この通りに門司から福知山まで特急、快速を使わず鈍行のみで移動するとなれば、門司から関門トンネルをくぐる列車はこの時間にはなく、下関5時39分発で始めたとして、益田、浜田、出雲市、米子、鳥取、浜坂、豊岡と乗り継いで、福知山23時22分着。かつて長時間停車していた駅が次の列車への乗り換え駅になった形だが、これ、リアルでやってみても面白いかな・・・。

長門市から美祢線に入る。長門湯本温泉を通り、秋吉台で知られる石灰岩地帯を行く。当初は、大嶺炭田の石炭を宇部港まで運ぶために開かれた線で、その後も石灰石輸送でも賑わった。後に宇部興産が石灰石輸送の専用道路を設けたこともあり貨物輸送は現在は廃止されているが、路線として「幹線」扱いなのはその名残である。

厚狭から山陽本線に入り、下関に到着。ようやく本州の西の端に到着した。リアルの旅行からこの港町でゆっくりしたいところだが、すぐに関門海峡を渡る。『最長片道』では門司で急行「あきよし」とはお別れして、鹿児島本線の快速に乗り換えている。机上旅行では小倉まで行った後、この後の行程を考えて特急「ソニック」に乗る。博多と福岡県東部、大分を結ぶ特急だが、小倉やその先の駅からでもそこそこ利用客がある列車である。次の「ソニック16号は香椎にも停車する。

香椎からは香椎線。路線としては非電化なのだが、2019年からは全て「電車」が走っている。JR九州が開発した「DENCHA」という車両で、電化区間ではパンタグラフから電気を取って走行して、走行・停車中に蓄電池に充電する。そして非電化区間では蓄電池の電力で走行する。電化工事にかかる費用を抑え、二酸化炭素の排出も抑制する画期的な取り組みである。香椎線のほか、筑豊本線の折尾~若松(若松線)にも使われている。運転区間が比較的短く、架線のある路線や駅に乗り入れての充電が容易ということからこの2路線での運用という。これもいずれリアルで乗ってみたいものだ。

香椎から30分ほどで終点の宇美着。『最長片道』では勝田線に乗り換えている。両駅はそれぞれ別の私鉄だった歴史から離れた場所に位置している。その勝田線、筑豊の炭鉱線の一つだったが1985年に廃止されている。炭鉱が廃止になったこともあるが、その後沿線は福岡のベッドタウンとして人口が増えたにも関わらず、輸送ダイヤのテコ入れも行われなかった。一方で西鉄が人口の増えた沿線にバスを走らせており、利便性もよかったので勝田線が廃止になっても特に困らなかったようである。机上旅行でも、西鉄バスの路線図から海駅近くのバス停を見つけ、これで吉塚まで移動する。途中、福岡空港の近くも通る。

吉塚からは篠栗線。現在は筑豊本線とともに「福北ゆたか線」の愛称を持つ。現在は電化され、福岡近郊の通勤通学路線。『最長片道』では乗ったのが土曜日の昼下がりで、土曜日の通勤客で混雑しているとある。当時は土曜日が「半ドン」だったのだろう。

途中、長者原を通る。『最長片道』当時は、篠栗線のうえを香椎線が跨いでいたが、香椎線の駅は設けられていなかった。そのために香椎線~勝田線~篠栗線というルートとなったが、JR発足後にホーム1本きりながら乗換駅が新たにできた。

『最長片道』では、ボックス席の前に座っていた中年の客が「齢をとると忘年会が二日がかりになる」と話しかけてくる。前日の夕方から飲み続けていて、文字通りの「二日がかり」になったようだ。ちょうど12月、忘年会シーズンということもあったのだろう。

それはそうと気の早い話だが、2020年のリアル社会では「忘年会」というのは行われるのだろうか。私は飲むのは好きだが、大人数で集まる会というのは苦手なので「忘年会」はなくてもどちらでもよいが、飲食店にとっては死活問題だろう。「新しい生活様式」では密集を避けることが求められるし、食事についても向かい合わせで座らない、会話を控える、大皿料理ではなく個人ごとに取り分け(ということは、大勢で鍋をつつくのはNG)、お酌も控えるとなると、やる方も今までとは違ったスタイルでなければならない。それなら無理にでもやらなくてもいいのでは、となるだろう。

『最長片道』では飯塚で下車して上山田線に乗っている。九州のスケジュールを立てるにあたってはこの線が核になっていたとある。途中の上山田~豊前川崎間が1日4往復しかなく、そのうち3本は早朝と夜で、手ごろな時間の列車は飯塚16時21分だけという状況。この列車に乗るために前日6時の東京発の新幹線に乗り、そしてこの日の行程が小倉23時半までとなった。

その上山田線も筑豊の炭鉱線の一つで、JR発足後の1988年に廃止されている。その後は西鉄バスに転換されたが、そのバス路線も廃止・統合されている。私も周辺地図や西鉄バスの路線図・時刻表をいろいろ見たが、結局はこの後経路がかぶることになるが、いったん隣の新飯塚駅まで行き、6分の連絡で上山田行きのバスに乗る。このバスは上山田線のルートというよりは、JR発足前に廃止された漆生線のルートに近いところを行く。いずれにしても私はこの区間は訪ねたことがないので、YouTube等に掲載されているかつての動画で往年の様子をうかがうことにする。

かつての上山田駅に近い山田図書館で下車する。ここから日田彦山線の豊前川崎に向かうが、この区間を結ぶバス路線が廃止されている。嘉麻市、川崎町それぞれの域内を走るコミュニティバスはあるが・・。

ここで、北海道のサロマ湖以来となるタクシーの登場である。豊前川崎発の列車まで2時間あるので、時間的には問題ないだろう。

17時を回った豊前川崎。『最長片道』でも同じ時間帯に通っており、宮脇氏はともかくこの日のうちに筑豊の炭鉱線を抜けようとこの後も乗り続ける。その結果、日付が変わる直前に小倉に出ることになったが、机上旅行ではどうしようか。ともかく田川後藤寺に出て、これはJRとして現存する後藤寺線に乗り換えて、新飯塚に到着。福北ゆたか線で直方に出る。18時44分着。

この先は伊田線、田川線という、現在は平成筑豊鉄道に転換された路線である。列車はまだまだ走っている時間帯で、また平成筑豊鉄道になってから本数が増えたこともあり、『最長片道』の時よりも早い時間に小倉まで行くことはできる。ただ、机上旅行とはいえなるべく明るい時間に乗りたいし、おそらく普段の観光旅行なら泊まることがないであろう筑豊地区に宿泊するのもいいだろう。ということで直方に宿泊とする。駅からは少し離れるがホテルもある。

直方は言わずと知れた炭鉱の町だったが、近年では大相撲で長く大関を張った魁皇(現・浅香山親方)の出身地として知られる。九州場所での熱狂的な応援も印象的だったし、現在も福北ゆたか線では「かいおう」という名前の特急が運転されている。

『最長片道』では列車の接続が悪いこともあり、直方で途中下車して夕食としている。駅前を歩くと、飲み屋街から一本裏通りを入ったところには格子戸の家が並び、「高山だ、津和野だ、小京都だと言うけれど、この通りのほうがよっぽど情緒があるではないか」と記している。今でもこの通りは残っているのだろうか。

行程を少し先に進めると、宮脇氏は次に下車した伊田(現・田川伊田)でも待ち時間があるので、燗酒とおでんで一杯やっている。店の女将との会話で、田川の町の下が穴だらけということを聞く。無数の坑道が掘られたのが放置されて空洞化し、その上にある家が陥没することがあったようだ。その飲み屋の裏の果物屋も陥没して地下の倉庫に水が溜まり、消防が水汲みをやったとある。今から42年前の話。現在は炭鉱というのはもう歴史の教科書の範囲になるのかもしれないが、現在はそうした事態はないのだろうか。

まあ、そうした当時の趣を想像してみるのもいいだろう・・・。

 

 

※『最長片道』のルート(第30日)

(第30日)益田7:11-(「あきよし」)-11:10門司11:20-(鹿児島本線)-12:40香椎12:46-(香椎線)-13:10宇美13:48-(勝田線)-14:09吉塚14:50-(篠栗線)-飯塚16:21-(上山田線)-17:10豊前川崎17:12-(日田彦山線)-17:20後藤寺17:23-(後藤寺線)-17:48新飯塚17:52-(筑豊本線)-18:07直方・・・(以下続き)

 

※もし行くならのルート(第29日)

益田5:56-(山陰本線)-7:46長門市7:54-(美祢線)-9:01厚狭9:09-(山陽本線)-9:43下関10:09-(山陽本線~鹿児島本線)-10:23小倉10:41-(「ソニック16号」)-11:21香椎11:51-(香椎線)-12:22宇美-宇美町役場入口12:48-(西鉄バス)-13:23吉塚二丁目-吉塚13:44-(福北ゆたか線)-14:29新飯塚14:35-(西鉄バス)-15:16山田図書館-(タクシー)-豊前川崎17:19-(日田彦山線)-17:29田川後藤寺17:48-(後藤寺線)-18:09新飯塚18:28-(福北ゆたか線)-18:44直方

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『最長片道切符の旅』をめぐる机上旅行~第28日(松山(堀江)~益田)・その3

2020年06月06日 | 机上旅行

まだやっているのか、いつまでやっているのかというこの机上旅行。1978年の宮脇俊三の『最長片道切符の旅』をめぐる机上旅行である。

この『最長片道切符の旅』をキーワードにすると、私のように机上旅行で済ませるのではなく、過去には実際に、途中の交通機関の形態が変わったとしてもリアルにそのルートをたどったという旅行記をいくつも見かける。移動のペースは人それぞれだが、やはり実際にその跡をたどって旅を完成させたのが素晴らしい。

さてこの机上旅行、前の記事では三原~岩国までと短区間の記載だった。そしてその大半が『最長片道』関係なく、何やら現在の自民党と、それに対する広島県ゆかりの宏池会のことについての内容だったが、それはさておき山口県に入る。

岩国から徳山までは2本の路線がある。山陽本線と岩徳線だが、当初は現在の岩徳線が山陽本線の線路だった。しかし戦時中、岩徳線区間は勾配のある路線のため輸送力増強のネックとなり、遠回りでも比較的平坦な地域を走る当時の「柳井線」が山陽本線となった。この区間は山陽本線の中でもっとも長く海と接する区間で、車窓から穏やかな瀬戸内海、そして大きく見える周防大島の景色も楽しめる。

徳山近辺でコンビナートの景色を見る。『最長片道』、2020年机上旅行ともに、ここの夜景を見ることなく日中に過ぎる。宮脇氏も「いかなる現代彫刻も及ばぬ迫力がある」としている。私も中国観音霊場めぐりで徳山まで進んだが、その時はコンビナートの景色を見なかった。この後再開する札所めぐりの中で、時間を取ってリアルで見ようと思うがどうだろうか。

小郡、現在の新山口から山口線に入る。『最長片道』、2020年机上旅行ともに、列車名は「おき」である。「おき」でも指定券を1車両に固めて発売していたようで、宮脇氏は車掌が来たら文句を言ってやろうとしていた。しかし、素朴な車窓の景色、そしてここで「日本の『国果』は柿、『国菜』は大根なのだろうか」という名言が飛び出す。平凡かもしれないが、ひょっとしたら中国地方の山間というのは日本のそうした平凡な山村の風景の代表とも言える。またこの後に車内改札に来た車掌の対応に宮脇氏もニンマリとして、そうした文句などどうでもよくなったという。

『最長片道』で宮脇氏は津和野で途中下車している。山口線内で1ヶ所くらいは途中下車可能としての計画のようだ。駅から歩き、森鴎外、西周の旧居を訪ねている。ちょうど当時が「ディスカバー・ジャパン」で萩・津和野が小京都のセットとしてブームになりだした頃という。宮脇氏も水がきれいということに感心している。私も久しぶりに訪ねてみたい町である。

津和野から山口線を進み、益田に到着。『最長片道』では駅の裏手にある「ニューフジタ」というビジネスホテルに宿泊しているが、駅から大きく回らなければならないようで、結局タクシーを使っている。そんなに遠いのかとホテル名前で検索すると、現在も健在のようだ。国道9号線に近く、イオンが目の前にある。ただ「駅前」という感覚ではなく、駅からだと線路を跨線橋から地下道で回らなければならないので、この日の早朝に東京を出発して、三原からは在来線を乗り継ぎ、津和野に途中下車した後だと、歩くのはちょっときついかもしれない。

さて次の日はいよいよ九州に入る。『最長片道』当時と比べて2020年の鉄道の状況ががらりと変わっていることを、改めて感じさせる日が続くことに・・・。

 

※『最長片道』のルート(第29日)

(第29日)宮脇氏自宅から東京6:00-(「ひかり21号」)-岡山-(「こだま◯◯号」)-三原11:07-(山陽本線)-12:26広島12:28-(山陽本線快速)-15:06小郡15:09-(「おき6号」)-津和野18:00-(山口線)-18:39益田

 

※もし行くならのルート(第28日続き)

三原11:59-(山陽本線)-14:07岩国14:42-(山陽本線)-16:33新山口17:12-(「スーパーおき6号」)-18:48益田

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『最長片道切符の旅』をめぐる机上旅行~第28日(松山(堀江)~益田)・その2

2020年06月04日 | 机上旅行

前回は四国から中国に戻り、呉線で三原まで来たところで中断となった『最長片道切符の旅』。1978年に宮脇俊三が訪ねたルートを2020年に机上旅行でたどろうというブログ記事だが、ようやく終盤戦に差し掛かる。

『最長片道』では北海道から始まった後、何回かに分割して旅をしたが、それも今回の三原からの再開が最終となる。この先6日間でともかく枕崎まで行き、翌日に東京まで戻るという旅程である。本文の第29日の章からも、どこか悲壮感すら漂ってくる。この旅を終えるとしばらくは旅に出ることもできないという・・・まあ、この旅行を一冊の本にせよという「仕事」があると、それだけの日数をかけて執筆しなければならないだろうから・・・。

『最長片道』では東京を始発の新幹線で出発し、まずは岡山に向かう。その「ひかり」が三原に停車しないために「こだま」に乗り換える。三原からは11時07分の在来線の広島行きに乗る。

一方の机上旅行、四国から中国への移動は、今は無い仁堀連絡船の代わりに松山観光港から呉港までフェリーに乗り、仁方駅にも立ち寄った後、呉線で瀬戸内を眺めながら三原まで来ている。第28日の正午前のことで、『最長片道』の再開と似たような時間帯である。

三原から山陽本線を行く。『最長片道』では沼田川の車窓に加えて、東広島の内陸部でも見られる石州瓦の集落についても触れている。山陰、特に石見の国と安芸の国でも西条あたりで似たような瓦が目立つのは、何かいわれがあるのだろうか。

山陽本線のこの区間は、2018年の西日本豪雨で、土砂流入、橋桁流出、斜面崩壊など甚大な被害を受けた。当然東京や大阪から九州を結ぶ貨物列車には大打撃で、一時的に伯備線~山陰本線~山口線経由の貨物列車を運行する事態にまでなった。

復旧までに3ヶ月弱かかったが、よく3ヶ月弱で復旧できたものだと思う。広島県では他にも呉線、芸備線などで大きな被害があり、県内の全線が復旧まではかなりの時間を要した。

その西日本豪雨に関して、今では報じられることもほとんどないが(まあ、それ以上のことをやっても平気という無神経だからだろうが)忘れられない行動があった。

豪雨があった当日夜に、東京にて「赤坂自民亭」という会合を開き、そこで乾杯している記念写真が世間に出回るということがあった。その中心にいた安倍は別にどうでもいいが、その会を仕切って、自慢げにSNSに配信していたのが、あの西村康稔である。今ではご立派にご出世なさって、「ポスト安倍」にもおなり遊ばされたそうだ。アベノマスクを拒否して、ご自身の下着を切って作ったかのようなマスク姿が女性(おばはん)に人気があるということで、本人も木に登った豚の気分で「ポスト安倍」にかなり色気を見せているようだ。

西村は安倍の腰巾着をやっていれば立身出席できるということを身を以てお示しされている。ぜひとも次の総選挙ではその色気を存分に発揮して、国内のええ加減な連中の票を獲得してもらいたいものだ。

・・・・・・ってなるかボケ。加藤を見ても人畜無害なので何とも思わないが、西村を見るとAV男優にいそうな顔で虫唾が走るわ。「ポスト安倍」といってもこの程度しかいないのか。

かつては、「三角大福」のように自民党の総裁=総理大臣のポストをかけて、今でこそ「派閥政治」と否定されているが、同じ党内でもガチンコの政争、ヤクザ顔負けの仁義なき闘いを繰り広げ、その中で自らの政策をアピールしていた時代があった。自民党の中でも常に官僚対党人、タカ派対ハト派、財政出動対緊縮財政など、時々によって主流派と反主流派のせめぎ合いがあった。

それが次代を経て、小選挙区制の影響もあるが、現在はそうした論争などまったくなく、自民党は安倍の顔色だけうがかい、たかが安倍の腰巾着風情がデカい顔をしている有様である。

『最長片道』をたどる机上旅行は広島県内を行く。その広島県もかつての自民党、特に池田勇人からの宏池会の流れを汲む王国である。その別の流れからは、県東部から中部にかけて強い勢力を持った亀井静香という人物もいたが。

それが今では安倍・菅のゴリ押しで、党本部から巨額の応援の金が流れたおかげで、何の主義主張もなさそうな(というか、人間味が全く感じられない)河井克行・案里といった輩が当選する土地になってしまった。それに対して何の反論も、自分の政治姿勢も主張することができず、ただ「禅譲」を狙って小さくなっているのが現在の宏池会の岸田文雄。こんな奴が「ポスト安倍の一番手」と言ってもいいのか。そうこうするうちに、西村とか、加藤勝信のような輩にすら存在感を抜かれてしまった。下着マスクの西村や、ご飯論法の加藤よりは岸田のほうがまだマシと思うが、時代劇や小説なら、ここから岸田文雄がキャラクターが変わって一気に大逆転をする展開なのだろうが、今のところそうしたことは微塵にも感じられない。

広島の自民党も落ちたものだ・・・。

・・・机上旅行ではそうしたことを思ううちに広島を通過。宮島を望む区間を走り、山口県に入って岩国に着く。しんどいし、書いている自分が不快になったので、ここで机上旅行記もストップする・・・。

 

※『最長片道』のルート(第29日)

(第29日)宮脇氏自宅から東京6:00-(「ひかり21号」)-岡山-(「こだま◯◯号」)-三原11:07-(山陽本線)-12:26広島12:28-(山陽本線快速)-15:06小郡15:09-(「おき6号」)-津和野18:00-(山口線)-18:39益田

 

※もし行くならのルート(第28日続き)

三原11:59-(山陽本線)-14:07岩国14:42-(山陽本線)-16:33新山口17:12-(「スーパーおき6号」)-18:48益田

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『最長片道切符の旅』をめぐる机上旅行~第28日(松山(堀江)~益田)・その1

2020年06月03日 | 机上旅行

1978年の『最長片道切符の旅』から40年以上後にそのルートをたどる机上旅行。今回は四国を後にして中国地方に戻る。

かつての仁堀連絡船。戦後の1946年に、宇高連絡船の輸送力増強のために設けられた航路である。四国の西側で広島県と愛媛県を結ぶものだが、仁方(呉線)、堀江(予讃本線)ともに駅から連絡船乗り場まで離れており、鉄道で利用する客も少なかったという。また、堀江から呉の阿賀港まで結ぶ民間の呉・松山フェリーにも利用客を取られている。『最長片道』当時では1日3往復の運航だったが、1982年の廃止時には1日2往復となり、ほとんど話題になることもなく廃止となった。

『最長片道』の宮脇氏の描写から、当時の様子が伝わってくる。出航まで1時間以上あるので店をのぞいたり、呉・松山フェリーの船員が買い物かごを提げて劇画雑誌や妖しげな週刊誌を手当たり次第詰め込むのを見たりする。現在の堀江港だが、ライバルだった呉・松山フェリーも「しまなみ海道」の開通の影響で2009年に廃止され、こうした旅客船の姿を見ることはない。「うみてらす」という海の駅があるくらいだ。

船の形は瀬戸内海によくある「枠だけ載せたよう」なものだったが、船内には椅子席、桟敷席、甲板席と一通り揃っていて、売店もある。仁方まで1時間40分で結んでいたから、クルマやトラックの運転手にはちょっとした休憩時間になったことだろう。

宮脇氏も海や島の景色を眺めるが、鉄道とはテンポが違うようで退屈した様子だ。これはわかるような気がする。別に海や島の景色に限らず、同じような景色が続くと人間の心理として飽きが出るのではないかと思う。甲板の席で風邪をひきそうになったか、売店で日本酒とキャラメルを買ってしのいでいる。

・・・さて、2020年の机上旅行ではどうするか。前日に堀江港の様子を見に行った後で松山に宿泊したが、この日は松山観光港6時25分発の広島宇品行きのフェリーに乗る。この時刻に間に合うよう、松山駅からタクシーでも乗ったことにする。松山からは石崎汽船のスーパージェットで向かうのが最速だが、早朝便は呉に寄港せず、瀬戸内海汽船のクルーズフェリーのほうが早く着く。仁堀航路の西側を通るが、瀬戸内の島々の景色を眺めながらというのもいい。2019年には新造船「シーパセオ」が就航しており、ひょっとしたらこの便に当たるかもしれない。

音戸の瀬戸も通過して呉に到着。仁方駅などに立ち寄らず、呉駅に向かう途中で「大和ミュージアム」を見学してもいいが、そこはルール優先で先に進む。呉線に限らず広島近辺の電化路線に投入された227系の「レッドウィング」で広に行き、さらに乗り継いで1駅先の仁方まで行く。ここでいったん下車して、かつての仁方港まで向かう。もっとも、現在はこちらも他の航路はなく、対岸の下蒲刈島との間も「とびしま海道」として安芸灘大橋で結ばれている。かつて呉線が広島に向かう幹線だった名残が仁方駅のホームの長さに残っているというが、現在のところはどうなのだろうか。

1本後の列車で呉線を東に進み、途中の車窓で瀬戸内海を見る。須波から三原にかけての区間ものんびりと走るところだ。

三原に到着。『最長片道』ではここで中断して宮脇氏は東京の自宅に戻っている。この時は12月8日。「取材ノート」によると、12月9日~14日は仕事の都合もあったのだろうが、12日になって風邪をひきかけるとある。この方は12月、1月の時季はよく風邪をひいていたようで、かつての『時刻表2万キロ』の旅でも、年末の乗りつぶし旅行

の無理がたたって正月を布団の中で過ごしたという記載もある。また「取材ノート」によると、レイルウェイ・ライターの種村直樹氏にも相談して「出発を1日延期して」12月15日に東京から三原まで移動している。

種村氏にどのような相談をしたのかはわからないが、後々の結果として、『最長片道』は枕崎に着く前日に切符の有効期限が切れてしまう。体調を考えれば無理をしないほうがよかったのだろうが、ひょっとしたら種村氏に相談したのも、このままの行程で行くと枕崎に着く前にタイムアップになってしまいそうだが「最長片道切符」は現地レベルではどのような扱いになるのか?という内容だったのかもしれない。種村氏はそれに対してご自身の解釈で「15日に出発しても大丈夫、枕崎まで継続乗車できる」と宮脇氏に回答したのかもしれない。「取材ノート」にそこまで書かれていないが、同じ鉄道旅行のプロ同士でそうしたやり取りがあったのかな。

結果的に『最長片道』では有効期限最終日の夜、宮脇氏は八代駅で駅員と押し問答となるが、最後はあきらめて八代で期限切れとなった。しかし、その背景に国鉄規則に対する種村氏の解釈の相違があり、宮脇氏はそれに乗る形で「出発を1日延期」してしまった・・・のかどうか。あるいは、当初の宮脇氏の行程、そして種村氏の規則解釈では問題なくセーフだったのが、結局は宮脇氏が鹿児島県の志布志の旅館で朝寝過ごしたからご破算になっただけなのか・・・。

まあこの辺りは「その筋」の方々がとっくにお見通しだろうし、別に私がここに書いたからといって別に偉くとも何ともない。

このブログもこれまでのペースなら益田まで先行するところだが、三原まで来たところで一息入れることにする。机上旅行には切符のような有効期限はありません。この後も休み休み書くだけのこと・・・。

 

※『最長片道』のルート(第28日続き)

(第28日続き)松山9:50-(予算本線)-堀江11:43-(仁堀航路)-13:23仁方14:07-(呉線)-15:27三原・・・この後帰宅

 

※もし行くならのルート(第28日)

松山-(タクシー)-松山観光港6:25-(瀬戸内海汽船)-8:20呉8:34-(呉線)-8:48広8:53-(呉線)-8:57仁方10:23-(呉線)-11:45三原・・・(以下続き)

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駅弁お取り寄せ 新津・神尾弁当「数の子ずし」ほか

2020年06月02日 | ブログ

緊急事態宣言は解除されたが、旅行に行くことが難しい中、各地の駅弁業者も通信販売で何とかしのごうという動きが見られる。先日、手近なところでということで神戸の淡路屋の「豚々拍子」などを買い求めたが、家にいながら少しでも旅気分ということで楽しむことができた。陶製の器は現在食器棚に安直されている。

お取り寄せの第2弾は海鮮系ということで探したところ、目に留まったのが新潟県の新津駅・新潟駅の「神尾弁当部」。大阪でも通販での対応が可能ということで、先の週末、ちょっと贅沢気分に・・・。

まずはこちらの一品「数の子ずし」。駅弁に数の子を使うというのも珍しい。数の子はおせち料理のイメージがあるが、冬から春にかけてが旬。私も好きな一品で、スーパーなどでよく醤油漬けがパックで売られているので買って酒のアテにしている。それが駅弁で登場だ。

孟宗竹を模した容器(材質はプラスチック)に入っていて、鰹節をまぶした酢飯の上に結構大きな数の子の醤油漬けが3切れ乗っている。シンプルな一品だが、数の子の歯ごたえもよく、ほどよい塩味。「旅に出た時くらい数の子を存分に味わってほしい」と考案されたメニューである。美味しくいただいた。

続いては、「紅白押し寿司さけえんがわ」。この「神尾弁当部」は「えんがわ押し寿司」が有名で、当初はそちらにしようかと思ったのだが、新潟のイメージとして鮭も捨てがたい。そこで鮭の赤身とえんがわの白身が「紅白」で入っているこちらを選んだ。

この鮭の身も二重になっているところもあり、味がしっかりとついている。そしてカラスガレイのえんがわだが、脂がのっていて旨味もしっかりしている。このえんがわの押し寿司は開発に3年かかり、脂臭さをいかになくすかということに苦心したそうだ。オリジナルの甘酢に漬けて切り身をコーティングすることで、生臭さを抑えて後からじわじわと脂の旨味が染み出すのだという。ちょうど届いた頃が食べ時ということかな。

さらにもう一品、「のどぐろとにしんかずのこさけいくら」。こう続けて書くと読みづらいが、「のどぐろと にしんかずのこ さけいくら」と五・七・五で具材を紹介している。品名を書いただけで、さまざまな贅沢が詰まった駅弁と期待できる。

のどぐろ(赤むつ)の塩焼き、にしんの甘露煮、数の子の醤油漬け、鮭の塩焼き、いくらの醤油漬け・・・オールスターキャストやね。にしんと鮭のそれぞれの「親子」が入り、高級魚とされるのどぐろが締める。そこは駅弁なのでのどぐろも大ぶりとはいかないが、濃縮された味で美味しくいただく。商品の向こうに何やら瓶が置かれているが、まあそこは気にせずに・・。

新潟県は昨年末の年越し旅行で訪ねたが、振り返ってみると、直江津では「鱈めし」や「磯の漁火」を買ったが、そういえば新潟駅で弁当を買わなかった。その時の移動スケジュールを見ると、タイミング的に弁当が売り切れていたり、まだ入荷していなかったりというところだったかもしれない。通販のおかげで自宅でゆっくり新潟の地酒を飲みながら味わえてよかったが、やはり現地でいただいたほうがその分の旨味も加わることだろう。駅弁のレベルは今も全国有数といえる新潟、もし次に訪ねることがあればぜひ「駅弁」としてゲットしたい。

とはいいつつも、またどこかお取り寄せしますか・・・。

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