第9番の法輪寺から3.8キロで切幡寺(きりはたじ)に向かう。先ほどまでと比べて歩く距離も長くなる。第1番の霊山寺から吉野川の北側をほぼ西にルートを取ってきたが、10番で折り返し、今度は吉野川の南になる。また、切幡寺から北に山越えすると香川県になるが、88番の大窪寺で結願した後、このルートで切幡寺に戻り、後は巻き戻しのように第1番に戻って「四国一周」とする考え方もある。
法輪寺からは田園と住宅の入り交じる景色で、比較的新しい家も並ぶ。曲がるところも多く、都度標識を確認する。スマホのアプリ「お遍路ーる」にはグーグルマップがついていて、歩く際には時折確認している。
切幡寺までの途中の目印に、小豆洗大師というのがある(芋洗坂係長ではない)。弘法大師が法輪寺を建立した後で切幡寺に向かう途中、この地で一夜を明かすことになった。寒いので小豆の粥を作ろうとしたが水がない。そこで楠の木の下を杖で突いたところ清水が涌き出たという伝説がある。
この小豆洗大師だが、危うく見過ごすところだった。道を挟んだ向かいに新しい感じの寺があり、駐車場に大きな座像があった。阿弥陀如来かな・・?と見るうちに、ふと反対を見ると小豆洗大師のお堂があったわけだ。この辺りは八十八所以外の寺院や、道端の祠もいろいろある。
またしてもうどんの「八幡」の看板を見たところで、休憩所の貼り紙を見る。いろんな方の巡礼記でも出てくるところだ。私も最初から当てにしていたわけでもないが、実際に目の前にすると「ありがたいな」と思う。家の方は奥にでもいるのだろうが、自ら姿を見せずとも心配りを道端に並べておくのが、粋だと思う。魔法瓶の麦茶をいただき、手を合わせて先に進む。
秋月城跡というのに出る。元々は室町幕府の管領を務めた細川氏の拠点だったが、やがて秋月氏の支配となり、最後は長宗我部元親との戦いで焼かれた。
ここから切幡寺まではもう少し。途中、マムシ注意の看板がある旧道を通り、切幡寺の門前町に着く。切幡寺の石柱もあり、ここから見れば寺はすぐそこかと思う。
・・・ただ、ここからが長い。急な細い坂道の両側に旅館や仏具店が並ぶ。それを抜けるとペンキ塗りで「ここから15分」とある。あらあら。それで上るとようやく山門に出る。ここまで普通の道だったのが、手のひらを返すようなお出迎えである。
そして、切幡寺名物の333段の石段。横にはクルマも通れる坂道もあるが、ここは石段を選択する。坂道や階段・・・これまで西国三十三所や新西国でどれだけ悩まされたか。確かに西国や新西国には、いわゆる「遍路ころがし」の長い登山道はない。ただ、札所個々で石段や坂道の厳しさはある。切幡寺の石段に苦しめられたという記事を見るが、和泉の施福寺や近江八幡の長命寺、安土の観音正寺の長い石段に比べれば・・・それでもしんどいのはしんどい。
そしてやって来た本堂。クルマならこのすぐ下まで来ることができるようだが、それでも急勾配。いずれにしても大変である。
ここでお勤め。8番、9番でも見かけた歩きの人もやってくる。この人は歩きでも札所ごとにお勤めはしないようで、手だけ合わせて次に向かうようだ。ここでも、後から来て先に寺を後にしていた。
大師堂の奥に、切幡寺の由来ともなった「はたきり観音」がある。右手にハサミ、左手に布を持っている。弘法大師が修行中にほころびた僧衣を繕おうと、機織りの娘に布を所望したところ、娘は機織り中の布を惜しげもなく差し出した。これに感激した弘法大師が娘に「何か望みはないか」と訊ねると、「亡くなった父母への祈りのための観音像が刻んでほしい」という。すると大師は娘じたいを即身成仏させ、観音にした。これが切幡寺、はたきり観音の縁起とか。うーん、「観音像を刻んでほしい」というのと、「観音になる」とは、ありがたいようなありがた迷惑のような。現代の感覚なら「私・・・別にホンマに観音にしてくれって言うとらんがな」と、観音像がぼやいているかもしれない。ただ、弘法大師がいた当時は戦乱や疫病、貧困などの悲惨さは、今では
想像もつかないものだっただろう。それこそ、こんな地獄のような世に生きるくらいなら、成仏したほうがよいという思いを多くの人が持っていた時代といえる。機織りの娘が観音になるのも最上級のありがたい出来事だったとすれば、切幡寺にとってはこの上ないことである。
本堂左の階段を上がると大塔がある。徳川家康の勧めであちこちの寺社の修復や新造を行った豊臣秀頼が建てたうちの一つで、元々は大阪の住吉大社にあったのを明治時代に移築した。ちょうど高台になっていて、前面の吉野川流域の平野部と、その向こうの山々を見ることができる。「遍路ころがし」として知られる12番の焼山寺は、あの山の中である。全て歩いて・・・となると相当な労力なのだなと嫌でも感じられる。
納経所では年輩の女性が、次々に訪れる巡礼者たちの納経帳に対して黙々と筆を進める。
ここまで来て、この第2回の八十八所めぐりで回ることにしていた3つの札所は完了。前回も2日目でここまで来ることを目標としていたがリタイアしていた。ただその時に体調が万全だったとしても、果たして切幡寺まで歩いていただろうか。それこそ、「徳島バスの二条中バス停とは、どのようなところか」と途中からそちらに向かっていたかもしれない。通算3日がかりとなったが、ちょうどいい形でここまで来ることができたと思う。
さて問題はここから。当初は市場交通の市場~JR学駅までのローカルバスに乗ろうかとも思っていたが、せっかくここまで、この先のうどん屋「八幡」での昼食を楽しみに空腹を抱えながらやって来たのだからと、そのままJR徳島線の阿波川島駅に向けて歩き出す。地図によれば、「八幡」はちょうどその途中にあるようだ。その前に、ここまで羽織っていた笈摺を脱ぐ。本日の札所めぐりはこれにて終了、後は駅まで歩くだけだから、別に巡礼の格好をしなくてもというところである。今朝方下車した土成のバス停からここまで3時間半の道のりだったが、さすがに汗びっしょりである。ビニル袋に入れ、リュックの中に入れてとりあえず対処する・・・。
法輪寺からは田園と住宅の入り交じる景色で、比較的新しい家も並ぶ。曲がるところも多く、都度標識を確認する。スマホのアプリ「お遍路ーる」にはグーグルマップがついていて、歩く際には時折確認している。
切幡寺までの途中の目印に、小豆洗大師というのがある(芋洗坂係長ではない)。弘法大師が法輪寺を建立した後で切幡寺に向かう途中、この地で一夜を明かすことになった。寒いので小豆の粥を作ろうとしたが水がない。そこで楠の木の下を杖で突いたところ清水が涌き出たという伝説がある。
この小豆洗大師だが、危うく見過ごすところだった。道を挟んだ向かいに新しい感じの寺があり、駐車場に大きな座像があった。阿弥陀如来かな・・?と見るうちに、ふと反対を見ると小豆洗大師のお堂があったわけだ。この辺りは八十八所以外の寺院や、道端の祠もいろいろある。
またしてもうどんの「八幡」の看板を見たところで、休憩所の貼り紙を見る。いろんな方の巡礼記でも出てくるところだ。私も最初から当てにしていたわけでもないが、実際に目の前にすると「ありがたいな」と思う。家の方は奥にでもいるのだろうが、自ら姿を見せずとも心配りを道端に並べておくのが、粋だと思う。魔法瓶の麦茶をいただき、手を合わせて先に進む。
秋月城跡というのに出る。元々は室町幕府の管領を務めた細川氏の拠点だったが、やがて秋月氏の支配となり、最後は長宗我部元親との戦いで焼かれた。
ここから切幡寺まではもう少し。途中、マムシ注意の看板がある旧道を通り、切幡寺の門前町に着く。切幡寺の石柱もあり、ここから見れば寺はすぐそこかと思う。
・・・ただ、ここからが長い。急な細い坂道の両側に旅館や仏具店が並ぶ。それを抜けるとペンキ塗りで「ここから15分」とある。あらあら。それで上るとようやく山門に出る。ここまで普通の道だったのが、手のひらを返すようなお出迎えである。
そして、切幡寺名物の333段の石段。横にはクルマも通れる坂道もあるが、ここは石段を選択する。坂道や階段・・・これまで西国三十三所や新西国でどれだけ悩まされたか。確かに西国や新西国には、いわゆる「遍路ころがし」の長い登山道はない。ただ、札所個々で石段や坂道の厳しさはある。切幡寺の石段に苦しめられたという記事を見るが、和泉の施福寺や近江八幡の長命寺、安土の観音正寺の長い石段に比べれば・・・それでもしんどいのはしんどい。
そしてやって来た本堂。クルマならこのすぐ下まで来ることができるようだが、それでも急勾配。いずれにしても大変である。
ここでお勤め。8番、9番でも見かけた歩きの人もやってくる。この人は歩きでも札所ごとにお勤めはしないようで、手だけ合わせて次に向かうようだ。ここでも、後から来て先に寺を後にしていた。
大師堂の奥に、切幡寺の由来ともなった「はたきり観音」がある。右手にハサミ、左手に布を持っている。弘法大師が修行中にほころびた僧衣を繕おうと、機織りの娘に布を所望したところ、娘は機織り中の布を惜しげもなく差し出した。これに感激した弘法大師が娘に「何か望みはないか」と訊ねると、「亡くなった父母への祈りのための観音像が刻んでほしい」という。すると大師は娘じたいを即身成仏させ、観音にした。これが切幡寺、はたきり観音の縁起とか。うーん、「観音像を刻んでほしい」というのと、「観音になる」とは、ありがたいようなありがた迷惑のような。現代の感覚なら「私・・・別にホンマに観音にしてくれって言うとらんがな」と、観音像がぼやいているかもしれない。ただ、弘法大師がいた当時は戦乱や疫病、貧困などの悲惨さは、今では
想像もつかないものだっただろう。それこそ、こんな地獄のような世に生きるくらいなら、成仏したほうがよいという思いを多くの人が持っていた時代といえる。機織りの娘が観音になるのも最上級のありがたい出来事だったとすれば、切幡寺にとってはこの上ないことである。
本堂左の階段を上がると大塔がある。徳川家康の勧めであちこちの寺社の修復や新造を行った豊臣秀頼が建てたうちの一つで、元々は大阪の住吉大社にあったのを明治時代に移築した。ちょうど高台になっていて、前面の吉野川流域の平野部と、その向こうの山々を見ることができる。「遍路ころがし」として知られる12番の焼山寺は、あの山の中である。全て歩いて・・・となると相当な労力なのだなと嫌でも感じられる。
納経所では年輩の女性が、次々に訪れる巡礼者たちの納経帳に対して黙々と筆を進める。
ここまで来て、この第2回の八十八所めぐりで回ることにしていた3つの札所は完了。前回も2日目でここまで来ることを目標としていたがリタイアしていた。ただその時に体調が万全だったとしても、果たして切幡寺まで歩いていただろうか。それこそ、「徳島バスの二条中バス停とは、どのようなところか」と途中からそちらに向かっていたかもしれない。通算3日がかりとなったが、ちょうどいい形でここまで来ることができたと思う。
さて問題はここから。当初は市場交通の市場~JR学駅までのローカルバスに乗ろうかとも思っていたが、せっかくここまで、この先のうどん屋「八幡」での昼食を楽しみに空腹を抱えながらやって来たのだからと、そのままJR徳島線の阿波川島駅に向けて歩き出す。地図によれば、「八幡」はちょうどその途中にあるようだ。その前に、ここまで羽織っていた笈摺を脱ぐ。本日の札所めぐりはこれにて終了、後は駅まで歩くだけだから、別に巡礼の格好をしなくてもというところである。今朝方下車した土成のバス停からここまで3時間半の道のりだったが、さすがに汗びっしょりである。ビニル袋に入れ、リュックの中に入れてとりあえず対処する・・・。
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