まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

西国三十三所草創1300年 月参り巡礼~第5番葛井寺

2016年08月21日 | 西国三十三所
西国、新西国、四国八十八と、いろいろな札所めぐりの記事が入り乱れていて恐縮ですが・・・。

私が札所めぐりをするようになったきっかけはJR西日本がキャンペーンを展開している西国三十三所であるが、2018年に草創1300年を迎える。これは四国八十八所よりも古い伝統のもので、四国とはまた違った歴史、発展をしてきたものである。

この1300年を記念して、2018年を中心とした前後の2年間、合計5年間をかけてさまざまな催しが行われる。詳細は札所会のこちらのサイトにあり、それぞれの札所にて期間を決めて特別拝観が行われていたり(私も第4番の施福寺を訪ねた時に特別拝観に出会った)、昔ながらの徒歩で「法灯」をリレーする企画などが行われている。

その一つに「月参り巡礼」がある。東日本大震災をはじめとした自然災害からの復興や、世の安寧を願うために各札所持ち回りで法要が実施される。そして、この月参り巡礼の開催と合わせて、その日限定の特別な朱印を押すということも行われる。この4月に第1番の青岸渡寺から始まり、以下、月1回のペースで持ち回りで行われる。

現在、2016年度分として第12番の岩間寺までの日程が発表されているが、その日程全てに出かけることはできないし、2巡目はそれこそ時季や順番にこだわらず回ろうと思っているのでそれほど「行かなくちゃ」という想いはなかった。

ただ、藤井寺に住む者としては、やはり地元の第5番・葛井寺くらいはせっかくなのでどんなものか見てみたい。それがちょうど8月21日に行われるというので、これはぜひとも行ってみる。なお朱印は「この日限定」と言われているものの、朱印そのもののデザインはサイトでも紹介されている共通のもので、寺ごとにデザインが変わるわけではない。まあ、納経帳のその寺のスペースに特別な朱印が入ること自体に意味があるわけだが、これについては一つ押してもらっておけば十分かなと思う。

21日の9時半すぎに境内に向かう。10時からの法要がどのように行われるのかわからないが、リュックには西国先達の輪袈裟と数珠、経本を入れる。納経帳は西国先達の巻物ではなく、1巡目で使った大判のものを持参する。巻物には押せるスペースがなさそうだし、大判のものに重ね印を押してもらえばいいか。

初詣や藤まつり、千日まいりの時以外はさほど混雑することのない葛井寺だが、9時半をすぎると納経所のある本堂内外陣は行列ができていた。やはり知っている人は知っているものである。おそらく第1番の青岸渡寺から続けて回っている方も多いことだろう。

その中で「法要の方は中へどうぞ」と招かれる。特別に拝観料を取ることもなく、逆にお接待ということで授与品をいただく。また経本のない人には観音経と般若心経のコピーが渡される。本尊の前を通り奥へ詰めるよう案内される。正面からは外れるがこちらのほうがエアコンもかかっているし、パイプ椅子に座れるので楽だった。中に入るくらいだから「お参り度合」としては熱心そうな方が多く、先達の輪袈裟をしている人や、中には笈摺着用の人もいる。

時間となり法要。まずは僧侶たちの声明に始まり、続いて読経である。私も周りの人と一緒に唱和する。普段の札所めぐりの時と比べると読み方はゆっくりで、本来はこのくらいがいいのかな。

一通り終わったところで、住職からの法話である。旬の話題ということでリオ五輪の話題、高齢化社会のことについて。「皆さんはどの競技が印象に残っていますか」と振った後で、住職はバドミントンの「タカマツペア」や重量挙げの三宅選手などの名前を出したが、もっとも驚いたのは新体操だったとか(「あんなんようやるわ」というのがその理由)。また高齢化社会では姥捨伝説の故事を引き合いに出し、「今の方は『年寄り』『老人』と言われると嫌な顔をするが、元々は人生の先輩に対する尊称なんです。それよりも『後期高齢者』のほうが機械的な呼び方で敬意が感じられません」として、「皆さんも周りから尊敬される『年寄り』になりましょう」と。

法要と法話が終わり外陣に出ると、先ほどより列が長くなっている。4人フル体制で対応しているが行列がなかなか前に進まない。一人で何冊も納経帳を抱えている人が多かったり、漢字とご詠歌の両方を求める人がいたり。うーん、法要に出た人は別口でやってくれればいいのになと思うが、仕方ない。

行列で並び合った人同士の会話も聞こえてくる。どのくらい回っているとか、四国にも何回行ったとか、バスツアーがどうとかいうやり取り。それはいいとして、「先達の巻もんの朱印帳あるやろ、あれいちいちクルクル巻くの面倒臭いから、私いつも折り畳んで持ってんねん」とか、「遠いところは1泊2日で行くんやけど、初日に1回押してもろて、そして次の日も行ったらこれで2回分行ったことになんねん」などと「ウラ技」らしきものを披露していたのに「えっ?」と思う。

人のことをとやかく言うべきではないし、また言うだけのキャリアがあるわけでもないのだが、こういうやり取りを見聞きする中で、「本来の主旨をわかっているのかな」と疑問符をつけたくなるところもある。ただ、こういう方に限ってこうした企画もあっさり33ヶ所コンプリートしてしまうのだから、これはこれで大したもの・・・・?

30分以上待って順番となる。私は重ね印のため墨書はなく、本尊ご宝印を重ねてもらった後で、ページの余白部分に特別の印をいただく。つまりはこういうこと。

外に出ると行列はさらに伸びており、参道の灯籠まで続いていた。「今から並んだら2時間くらいかかるそうや」という声も聞こえてくる。葛井寺ですら(失礼)こうなのだから、この先、興福寺や京都の清水寺などの有名札所となるとどうなるのか。特に清水寺は、あの規模の割には納経所は小さかったように思う。また、葛井寺なら藤井寺駅近くで鉄道での移動もどうとでもなるが、琵琶湖に浮かぶ竹生島の宝厳寺はどうなるか。あそこは船の便が限られているし、最終便に乗れないという恐れもある。まあ、最終便の時間を遅らせるわけにもいかないから、その前に問答無用で打ち切られるのだろうが。

遍路、札所めぐりとしては四国八十八所がメジャーと言われているが、やはり伝統と札所個々の歴史の重さとなると、西国三十三所のものだと思う。この先数年は1300年記念の催しが続くことになるが、こちらもまた機会があれば訪れてみたいものである・・・。
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第2回四国八十八所めぐり~第8番「熊谷寺」

2016年08月21日 | 四国八十八ヶ所
18日~20日まで、旅に出ていたためブログ記事の書き込みはお休み。以前は小型のノートパソコンを持参して、ホテルの一室で続きの記事を書いたこともあったし、ホテルのレンタルパソコンを利用したこともある。今はパソコンに代わってスマホやタブレットもあるのだが、今回は部屋でのんびりということにしたのでお休み。

さて17日の四国八十八所めぐりは、第8番の熊谷寺(くまだにじ)を目指すために徳島自動車道の土成(どなり)インターのバス停に来た。ここで巡礼姿になって歩き始める。今日も暑くなりそうだが、それよりも心配なのは雨。高速で鳴門に入った時に雨粒がバスの窓を叩くのに遭い、その後も降ったり止んだりだった。下車した時は雨は止んでいたがこの先どうなるか。前回は白衣と、その下には汗を吸わせたいと長袖のシャツを着ていたのだが、これが逆に熱と汗を溜め込んでしんどくなったのかなと思い、今回は袖なしの笈摺を新たに購入している。歩き始めた感じではやはり風通しがよい。これからは両方を使い分けることにする。

土成バス停から200mほど南に行くと遍路道に出る。ステッカーの案内に従って歩き始める。この辺りは御所という集落で、鎌倉時代の承久の乱で土佐に流された土御門上皇が後に阿波のこの地に移され、最後はこの地で亡くなったという。途中に御所神社とあるのは、土御門上皇を祀っているとされている。

道沿いに古くからの家が並ぶ中、静かに歩くうちに15分ほどで色あせた看板がある。熊谷寺へはここで右折して細い道を行く。看板の上にステッカーが貼られているので気がついたところだ。徳島道の高架橋をくぐった向こうに立派な仁王門が見える。17世紀の建立で、八十八所の中でも最大級のものだという。ただ実際に来てみると「これで最大級?」と思う。西国や新西国だと、後に再建されたものも多いとはいえ、より大きな山門・仁王門はいくらもあったというのが頭にあった。

仁王門をくぐって少し歩くと道路が走っており、その向こうが境内である。こちらには石造の立派な柱が立っている。クルマで来る場合は仁王門を見ずにここから入ることになる。山を背にしてゆったりした感じがある。盆明けの平日だが巡礼姿でお参りに来ている人の姿もちらほらと見える。駐車場には演歌のような、男性の歌声がスピーカーから流れてくる。これは「熊谷寺慕情」というご当地ソング・・・というのは嘘で、熊谷寺のご詠歌である。どこの札所にもご詠歌があり、和歌の文字として目にすることはあっても、こうして節がついた音として聴くのは初めてである。そのご詠歌に送られて、多宝塔から参道を歩く。

弘法大師がこの地で修行していた時、この地に現れた熊野権現から1寸8分の観音像を授けられた。そこでここにお堂を建て、自ら彫った千手観音像の胎内にこの像を納めて本尊にしたのが熊谷寺の縁起という。熊野権現から熊谷寺と名がついたのかなと思うが、ものの本によれば、元々は熊野信仰のベースである海洋信仰があったのと、山岳修行で山々を回っていた山伏たちが修行の場として開いたのではとされている。

中門をくぐって本堂に出る。年季が入った感じだが、意外にも1971年という最近建立のものである。昭和の初めに本堂は火災で焼失し、本尊も失われたため再建された。まずはここでお勤めをした後、左手の石段を上がって大師堂に行く。

前回は「少しでも早くお勤めしなきゃ」という思いがあったのか、ウエストポーチに数珠やらローソク・線香、経本なども押し込んでいたのだが、今回それはやめて、普通にリュックの中に入れていた。ネットで見た遍路指南の中に、「リュックを一々下ろすのは面倒だし、時間短縮のためにお勤めに必要なものは全て山谷袋やウエストポーチに入れて、すぐに取り出せるように」というのがあり、前回はそれに捕われていたように思う。ただそれでもバタバタ感があった。前の時には書かなかったが、実はそのバタバタの中、お勤めの時に首から掛ける輪袈裟をどこかで無くすということもあった。今回、笈摺を購入する時に一緒に買い直した。

考えてみれば、全てを歩き通し、少しでも早く次の札所に向けて距離を稼がなければというガチの「遍路」ならこのほうが合理的なのだろう。ただ、途中路線バスを使ったり、今日みたいに途中の区間をすっ飛ばしたことで早々と「遍路」を名乗る資格を失った私は、誰かせかす人がいるわけでもなく、そこまで慌てる必要はない。リュックも下ろして、その中から一つずつ出せばよいことだし、そのくらいの時間的・精神的な余裕がないといけないなと思った。

あ、ガチの「遍路」から見れば、「公共交通機関を大いに使おう」「途中で四国アイランドリーグの観戦を必ず組み込もう」などと言っている時点で、私には最初から「遍路」の資格などないのである。私のやっているのは、どうせただの「札所めぐり」でしかない。

納経所は駐車場まで戻る形になり、ここで朱印をいただく。

この時点で11時半で、昼をどうするかである。ここまで来る道、そして納経所前のベンチにも「八幡」という看板が見える。うどんの店で、八十八所めぐりの記事の中にもよく登場する。この辺りに食事のできる店がほとんどないということもあるのかもしれないが、この日、この先で「八幡」の看板をいたるところで目にすることになる。道順で行けば第10番の切幡寺を回った後で、市場交通のバスに乗らずに阿波川島駅方面に歩いた場合にこの店に出るので、14時は回りそうだ。それまで我慢、逆に楽しみということにして、続く第9番の法輪寺に向けて歩き出す・・・。
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