まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第6番「南法華寺(壷阪寺)」~西国三十三ヶ所巡り・6(高取城跡)

2014年10月31日 | 西国三十三所
西国三十三ヶ所巡りの壷阪寺。そこに行く前に土佐街道沿いの高取の城下町を歩く。これからいよいよ高取城跡に向けて歩く。

南北朝時代の越智氏により建造され、その後筒井氏、本多氏などの支配を経て、江戸時代には家康の旗本だった植村氏が高取藩の大名に昇格する形で支配した。幕末には大名屋敷も山麓に下りてきたが、それまでは山の上にあったのである。本格的な山城になったのは戦国時代で、関ヶ原の戦いの前の戦いでは徳川方の本多氏は西軍の攻撃に耐え、幕末には天誅組の襲撃を退けた歴史がある。

標高583メートルも高いが、麓との比高350メートルというのもすごい。その高さを登るわけで、土佐街道からの登山道は5キロあるという。先日お参りした槇尾山施福寺の参道など子どもみたいなもので、伏見稲荷の一ノ峯よりも厳しい。

高取の町並みを抜け、植村家の長屋門を過ぎる。それでもまだ家や畑が続く。田舎の里山といった風情で、地元のお年寄りがのんびり歩く姿も見られる。

上小島の砂防公園に着く。ここで集落が途切れ、道幅が狭くなり、登りを感じさせる。山上にはトイレも何もないので、ここでしばし休憩する。

ここから山道だが、舗装道が続く。郵便のバイクも上から下りてくる。周りは木々が生い茂る。思わず、昔にテレビCMで流れていた「タカスギ~タカスギ~、カーッ、タカスギ~!」のメロディーが頭に浮かぶ。

そんな舗装もフッと途切れる。この先車両は入れないとの看板が立ち、木の階段が見える。先ほど壷阪山の駅に降り立ったハイカーの一段もここで休憩していたが、それを横目に先に歩く。

ここからはひたすら登る。やはりきつい。七曲りとか、一升坂とかいう名前はチラリと見るが、息が上がる。こんな坂、城攻めではなく日常で登らなければならないとは。ここまで来ると、「タカスギ~」の歌を頭に浮かべる余裕はない。

こうした山城も、ここ数年の豪雨のせいか、崩れているところもある。登山道も、その筋の方々には屁とも思わないだろうが、素人には「どこを踏んだらええんや?」と言いたくなる箇所が結構ある。だから山城で、天然の要塞なんだろうが。もう、登るのに精一杯で写真など撮る余裕もない。

途中には登城のスポットとして知られている猿石というのがあるのだが、登っている中でその石には気付かなかった。また脇道を行けば国見櫓と言って、大和盆地を一望にできるところもあるが、そこに行こうと足が向くだけの余裕がない。あかんな・・・こう余裕がないのでは。

ただそんな山道も、石垣に出会うとこの先頂上が近いなとホッとする。舗装道が途切れたところから40分くらいかかったか、いよいよ、城郭らしさを感じさせるところまで上がってきた。あともう少し。

そして城内に入った。山城というから最初は千早城のような「砦」をイメージしていたのだが、石垣の数々は立派なものである。山という天然の要害がありながら、その上にこれだけの石垣を築き上げたのは一体何の作用かと思う。家康の旗本家という由緒があるためなのか、諸大名の城の無断での増改築を禁じた江戸幕府にあって、高取城はいちいち許可を得ずとも工事ができたそうである。それが積み重なって、江戸期の平城も顔負けの強固な山城が出来上がったわけである。

城内を散策する。その地に行ったことがないので、司馬遼太郎の言う「アンコールワットのような」という比喩に実感は沸かないのだが、山城ならではの野性味というのは感じる。かつては竹田城もそうだったのだろうが、観光で食い荒らされたような感じが痛い。訪れるのがハードな分、混雑するということもなく、山城でかつての夢の跡をゆっくり偲ぶことができる。

本丸跡には三角点がある。本丸でもあり、山の頂上でもあるという証である。ここではハイカー姿の二人連れがどっかりと腰を据えて、ビールを飲みつつ自前のコンロで湯を沸かしてラーメンでもゆでようかという感じである。こういうのもかつての殿様風情で、より美味しく感じるだろう。

かく言う私は殿様風情とはいかないが、ちょうど12時のチャイムが麓に鳴り響く中、おにぎりでの昼食とする。周りには吉野・大峰の山々が広がる。紅葉にはまだまだ時期が早いが、登城というよりは一つの登山を果たしたなということで満足である。

さてここから下山する。本日の目的地である壷阪寺に向かうのだが、今度は道が悪い中での下り坂に苦労する。上りより下りのほうが膝などへの負担がきついと言われており、私も先日の施福寺で、下り参道の途中で膝の後ろにピリッと電気のようなものが走り、足を引きずるようになったことがある。今回はそのような感じもなく、少しずつ下りていく。壷阪口まで来ると車道に出る。この先、昔ながらの登城道を行くのなら山道を続けて歩くことができるが、大事を取って車道を歩く。クルマも2、3台くらいしか行き来しない、のんびりした道である。

下りの途中で登山道への案内があり、五百羅漢があるという。壷阪寺の奥の院に似たような役割があるようで有名である。山道に入るとまだ新しい感じの観音像が並んでいるが、これは最近建てた永代供養用のもの。本物の五百羅漢は、「これだけいれば絶対に自分に似た石像を見つけることができる」らしいが、年月のせいか顔も原型をとどめておらず、そんなものかと手を合わせる。

ここからはあえて再び険しい山道を下り、どうには壷阪寺を見下ろすところまで出る。山麓にそびえる、これも寺というよりは砦か城としてもいいのではというくらいの伽藍が見える。同じ西国三十三ヶ所の中にあっても、青岸渡寺以上の迫力があるのではないだろうか。私も、城下町の端から登りはじめ、山頂を経て壷阪寺に出るまで3時間かかった。

その札所の一つに当たる寺で何があったかはまた別の話として・・・・。




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