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電車内の殺傷事件

2021年11月02日 10時57分34秒 | 国を憂う
いるんですねこういう人が。「死刑にしてほしくて2人殺したかったんです」と動機を語ったようですね。個人の問題、あいつが悪いんだで済ませては置けない。どうすればいいか、どうしたら無くなるかを考えないとね。

そのためには「人間の社会」の実態を正しく捉えることから始めないといけないと思うんです。
どうかすると、社会の実態を見せないようにする力も働いてるように思うのです。「見てない、見えてない、見せてない部分」があって、今までは見えてる中だけでの策だったんじゃないかの疑問もあります。
僕は まさに「人間社会の多様性」なんだと考えてるが、想像もできないような人、考え方がいろいろあって、混沌としてるのが社会の常態だと思うんです。病気的な面で見れば、ほんとに悪い人から全く健康な人まで、その構成割合は昔からそんなに変わってないんだと思うんです。
本当に悪い人(先天的な)は公的な支援が必要でこういう人達が一定割合いるものだと理解し、制度を設けて「公助」する。
そこまでじゃないけど、何らかの、もう少し軽い、周囲の見守り的な支援が必要な人達もいる。ここへの支援は「共助」だろうな。
悪いんだけど、どうにか自分でコントロールできる、させる人達もいる。ここが「自助」です。
こういう構成で社会はできてるんだと思います。これは社会のあらゆる面で共通ですよ。

さて、そこで今回のような事件をどう理解するかなんですが、2つの点を考えるんです。
1つは上の共助、公助が怪しくなってないかということ。もう一つは病気を進行させる要因が増大してないかということです。
前者は新自由主義のうたい文句の元、「自己責任、自助」に重きが置かれ、公助、共助が細ってきたことがあると思います。それには財政難もあったでしょうね。その人個人ではなんともできない運命的なことなのに「自助だ」、「あんたの責任だ」と言われたんじゃ立ち上がれないよね。どんどん怒り、鬱憤を溜めてる人がいるだろうと想像するんです。
また今の都会 よく言われますよね、マンションで隣、上下どんな人が住んでるかも知らない、挨拶したこともありません的な人のつながり、共助が消えつつありませんかと言いたいな。僕が育った60年前の北陸の田舎生活 まわりからのそんな思いやり、暖かい視線を感じながらやんちゃしてたような。社会から暖かさが消えてるよね。
後者の要因とはよく言われる「格差問題」だと思う。今社会にまん延してる「格差」についてはいろんな角度から評論されてるので書かないが、コロナもあり、ほんとに困窮してる人は大勢いるはず。しかし、一方では昔の顔と名前、調子のいい言葉を弄して、あるいは今流の錬金術でシャラシャラと生活してる人達がいる。そりゃ頭に来て当然だろうね。
コロナがそうさせてるとの報道でしたが、今新宿歌舞伎町の裏路地に20から40代くらいの女性が客を捕まえるべく立ちんぼしてるのだそうです。多くなってもきてると伝えてました。
構造的な欠陥が見え始めて久しい。理解してる、解決しなければと言いながら修正できないでいる そんな社会を困窮者は感覚的に掴まえてるんだと思います。納得いかない感情が膨れていくでしょうね。

今回の事件 「個人の問題」として済ませ、真の原因を語ないとあれば、第2,第3の同種事件が起きるだろうと心配になります。
社会制度、社会構造に大きな原因があると言うのは間違いでしょうか。
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7 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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この全文にはとても対応できないが (kanou37)
2021-11-02 20:17:49
共助を嫌う人はそんなにはいないとは思いますが、われらの子供の頃の良き共助はないとは言わないが、共助のつもりが、たとえば望んでいたものとはかけ離れた共助らしからぬものに陥る人たちが、多いのだと思います。それは世の中が、細分化してそれがさらに細分化して、おんなじだ、と思っていた隣人が、どうも違うひとだったということが、お隣近所にとどまらず、様々な組織、団体、地域でも起こっていて、煩いとか、恨みとか、ねたみとか、およそ望んでいない形となって、跳ね返ってくるのを、想定して、多くの人が、最初から、回避しているのが、今日的非共助あるいは不共助になっているのではないか、と、岳さんの文面から、ここまで思い至ったが、ううむ、人たちが、人たちと、交わることから生じてしまう煩いから、遠ざかりたい、そうしないと、自身もが壊れてしまうという恐れというものから、自分の感覚では思います。この提起を例えば52歳の時に提起されていたら、どうか、たしょうは、違うことを書いているかもしれない。やや無責任だけど、とりあえず、は、そういうところであり、これが、42か、32かだと、また違うことを書いていたかもしれない。岳さん、こりゃあ、難問です。
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追伸 (kanou37)
2021-11-02 20:33:32
ううむ、20代から40代ですか………引かれますが、自分はスケベですが、それは認めます。が、そんなことしたら、自助も共助もなくなってしまう。やれるならやりたいが、自分の器ではない。ですが、30代でしたら、恐々と、びくびくしながらも、覗いてしまうかもしれません。女性の脂粉には弱い。まいった……
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「共助」は社会力 ()
2021-11-03 09:12:35
kanou37君 おはよう。返事おくれた。昨夕は早いうちから眠くなってね。
僕が書いた「共助」を貴方の理解で、確認も含め書き直してくれたんだと理解しました。解釈いただいた通りです。追加すれば、最近は「自助論」「自己責任論」が強すぎて、弱い人が「助けてよ」と言いづらくなってるのもあるな です。
その上で、君は人間関係から生じる「煩わしさ」がいやでな とおっしゃる。 でもそこは違うと思うのよ。いい例が10年前の津波被害。ご近所助け合わないと助からない、生き延びれないじゃなかったのかな。日頃からご近所の「共助力」を強くしておく、個人的にも、地域的にも これは必要だよ。自分ができる範囲で手を貸し、できないとこは助けてもらう、もらえる関係は重要 僕はそう考えるな。
「公助」は国力、「共助」は社会力、「自助」は個人力 社会に力を蓄えたいな。
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発展途上国へ100億ドルの (世を憂う人)
2021-11-03 11:16:38
追加(?)支出をソーリが会議で宣言した。
おいおい、てめえの頭の蠅をおえよ!・・・です。
低レベルのコメントでご免やっしゃ。
自分の窮状をテロで表現しようとの輩はあとをたたない。政治の貧困のなせる技。公助のなかの、扶助が行き渡らない。
それとも、犯人の一族郎党をしょっ引いて、見せしめのため、市中引き回し、制裁を加える。・・・江戸時代に戻すか。
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江戸時代制度にしてもあかんでしょう ()
2021-11-03 13:49:58
世を憂う人さん 解ってるとは思うけど、そんな恐ろしい制度にしたらかえって逆効果、いたちごっこになって、もっと恐ろしい社会になるぜよ。
差の無い社会、全てが同じ尊厳の中で生きられる社会になることで、「死刑になりたい」と考える人が減ること、いなくなること それが理想だろうね。
そういう性格、そうなりやすい人は一定数いるのよ。それは無くせない。でもそれが加害者となって表に出て来ないようにはできるだろうね。
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ううむ、うまく言えませんが (kanou37)
2021-11-03 15:27:39
共助にたどり着くには我が国はなかなか、あるいは我々は、と、言ってもいいのですが、昔、何かの時代劇で、村中が、助け合って、川に土嚢を積んだり、農業を差し置いて、助けあって、川の氾濫を防いだ物語を見たが、そして、2011はいまだに新しいが、あれは人々の寛容と妥協という、人の営みの限界的なやりとりによって、成り立ったと思うのです。絆という新語?で、あの時代を表していますが、それはほんと、その有難さ、素晴らしさは否定できまぜん。正しかったのです。ただ、現実には協調の旗印の下、忍耐が極限を越えて、亡くなった関連死者もまた、多数いました。
 自分も、共助、賛成です。but、なかなかだれもが納得できる共助を構成するのは、今は、とても難しいと、言いたいだけで、相手を知ろうとする絶え間ない努力と、忍耐が、欠かせなくなり、そのことが立ちはだかります。
 組織内で、働いてきた自分も、妥協を余儀なくされたことは何度もです。妥協、あるいは、折れる、など、言葉はよくないのですが、そうやって変わり身の早さで乗り切ったことはありました。………… 
 公助、自助については、いまいち、研究しておりませんので、後日、返信します。
 助け合いに名を借りた共助的なものは多いのでしょう。自分にはその見極めが、出来なくなっていることは認めます。
 個人的にはこのブログの管理人さんである岳氏の共助的温かみには心打たれてはおりますが………
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そこを乗り越えた所にあるんと違うかな ()
2021-11-03 17:39:14
kanou37君 考えさせてくれて、自分の中も整理されてくる「勉強材料」を提供してくれるコメントですね。
今回のコメントで「より深く考えちゃう」点は「協調の旗印の下、忍耐が極限を越えて、亡くなった関連死者」というところだよね。
2011のような事態になった時、助け合う関係が発生する。但し助ける側、助けられる側と分けた時、Aさんは100%助けられる側で助ける力は0%と決めるのはどうかと思うな(そういう人もいるのは認める。それが社会の構成要素だと思うから)。30もできないけど、10ならできる。それしかできないけど参加させてでいいんだと思うんだな。「それじゃ少ないよ」なんていうやつがいたらもう仲間の外。だれしも局面によっては助ける側になったり、助けられる側になったりでしょう。できる能力に差があるのは当然。そういう人間関係って作れんものかな。今の瞬間助ける側に回った人が助けられる側に「何かを強要する」のは間違いでこれも仲間の外 だと思うんです。「されてる」という遠慮(=不本意な妥協、忍耐)は不要なんじゃないかな。それを考えた、あるいは考えさせられた瞬間に「共助」は狂う。
オペラで役者の心得で先生がよく言うのは「役者がテレたら、観客が気持ち良くなれないんだよ」というんです。これと同じです。動く方が負けちゃいけないんですよ。毅然としてないといけない。強要するなんてとこがあってはいけない。そこから先はその個人のペースっていうのを認めてないとね。
いや、確かに「神様」みたいなこと言ってると思うよ。でも「できない」とは思わない。今の日本では「自助論」が強くなったんで、弱い側が「助けて」を言えなくなってる。素直に言える社会になればと考えるのよ。
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