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渋谷ハロウィン騒動

2018年11月02日 09時42分00秒 | 国を憂う
「軽薄な世になったな」と思った人が多いのでは。仮装して正体がばれなければ何やってもいい、大勢でなら平気で羽目外す。そんな傾向がどんどん強くなってるように思えて、人間社会の先々に不安を思ってしまう。
「川崎ハロウィン」(ハロウィン祭の先陣らしい)はその実行をあるNPOが管理してるようで、ルールもあり、その枠内で粛々と参加者が楽しむ形式を長年続けてるらしい。責任者の方が「うちでは渋谷のような問題は起きません。渋谷の問題は責任者がいないこと。運営母体をはっきりさせることが大事。」と語ってた。 一見正当なようにきこえるんだが、ぼくにはこれもこれで怪しいように思えるのだ。
何をするんでも先に規制なり枠が設けられ、「その中で行動して」とやることが正しいとは思えない。今を飛び越えた新しい物は生まれないと思うから。ここはもう「社会が先か個人が先か」の問題だ。
つらつら考えた結果、「まず自律」の思いに至った。社会の規制でも個人の活動でもない。それ以前にまず「個人が自分を律する」力を持つことだということ。個人にこれがあれば社会が準備する規制の枠も変わるだろうし、個人の行動も変わってくるだろう。結局「ゆるやかで、生き易い社会」を形成することにつながるんだろう。そこまでは考えた。
今日の朝刊で京都大学の佐伯名誉教授が次のように書いてる。
論の発端はトランプさん、グローバル化、ポピュリズム、民主主義といった世相からの考察なんだが、最後に哲学的な結論を書かれてる。

『社会の伝統的秩序の中にある「自己抑制」「寛容」「思慮」「エリートのもつ責任感」といった価値観は民主主義とは関係ない。見えない社会規範というべきものだ。 (それが失われた時、民主主義こそが独裁者を生み出す。) 』
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