カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

増えやすさがフロンティア精神の源だったからこそ

2012-03-18 | 境界線

 人類がアフリカ大陸からどんどん別の大陸へ移住していった大きな理由は、人間が増えやすい動物だったということが言えるらしい。親戚のようなものであるサルたちと比較すると、オランウータンは8年、ゴリラは4年、チンパンジーは5年に一度子を持つらしい。人間はほぼ一年に一度でも可能といえば可能で、事実どんどん増えていったものなのだろう。数が増えると住んでいるところが手狭になってくる。フロンティアを求めて移住せざるを得なくなるということだ。
 逆に言うとその場所に適正な数でいられることを、どういう訳か無視して増える道を選んでしまったものらしい。ふつうはネズミのような捕獲されるような生き物などがどんどん増えるというのなら分かるのだが、狩る方の立場の生き物が増えすぎるというのは、著しくバランス感覚に欠けているという気がしないではない。もしくは狩られる立場の生物だったものが、立場を変えてしまったせいなのだろうか。
 そういう訳で局地以外の場所に、まんべんなく大陸の隅々に至るまで生息する生き物になってしまった。そうして狩猟だけで生きていくにはついに限界に来てしまい、農耕によってさらに数を増やすことが出来るようになったのだろう。
 地球上で繁栄しやすい生き物だったことは分かったが、現代になると日本や韓国のような国では、子供が極端に増えなくなってしまった。生物的に増えやすいことに変わりはなさそうだけれど、意識的に増やさなくなってしまったということなのだろう。それに現実的にはいつまでも増え続けることは、やはり生物として限界がある。
 人間は最初から地球が限りある星だということを、知らな過ぎた生き物だったということなのかもしれない。そのように暴走が宿命づけられた生き物であることで繁栄を手にしたのであれば、おのずとそのことで破滅を招くということも、同じく宿命なのであろう。
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ダージリン急行

2012-03-17 | 映画
ダージリン急行/ウェス・アンダーソン監督

 狙い通りの面白さを上手く出している作品のようだ。そう退屈することもなくダラダラ観ることができる。日本人の僕には兄弟の年齢の上下が今ひとつわかりにくかったけれど、もともと彼らがそんなことを重視しているとも思えない。兄貴に振り回される弟たちではあるにせよ、最初から信頼している訳でもなさそうなのだから。
 インドだからむちゃくちゃというより、アメリカ人だから無茶苦茶ということも言えて、ここらあたりも微妙といえば微妙である。むしろその無茶に付き合う度量がインドにはあって、何とかバランスが取れているということなのかもしれない。しかしたぶんの話だけど、実際のインドはこんな感じなのではなさそうで、架空のファンタジーの世界の、別のインド観というものを映像化しているという感じはある。もちろん、この映画でインドにあこがれて旅してしまう人が多数だとも考えられないので、実害のほどは少ないのかもしれない。
 長い旅をしていて思うのは、仲の良い間柄だからといってそれが心地よいばかりではなく、たいして知らない同士だから、むしろ実に快適になる場合があるということだ。旅の感動を共有したいという欲求はあるにせよ、そういう訳で若いうちは一人旅というのが良かったのかもしれないと思う。退屈してもそれはそれでよくて、時間の浪費でさえ旅の特権とも言えるだろう。
しかしながら段々と年齢も重ねてきた訳で、もう一人でなくても良くなってきたのかな、とは思う。それを兄弟で行う選択がベストであるとは別の話であるにせよ、日本人だろうと外国人だろうと、それなりに誰と一緒に旅に出るのかというのは、その旅自体がどの様な楽しいものになるのかという、一番重要なファクターになるということは間違いあるまい。
 この映画の旅の動機は、兄弟の絆を取り戻すためのものであろうとは思うが、そういう訳で最初から大変に危なっかしい。出来事自体は脈略があるようでないようなものなので、確かに旅そのもののような趣のある、変な映画である。これを言うと身も蓋もないのだけど、別にインドでなくてもよかったのかもしれないな、というインド旅行記である。
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気になっていた場所と空振り風景

2012-03-16 | 散歩

 出張で中央線は時々使う訳だが、中野駅に降りたことが無かったことに気付いた。もちろん降りたことのない駅なんて、それこそ腐るほどあるわけだが、何となく中野って気になっていた地名だ。
 理由はいくつかあって、その中心は中野ブロードウェイという場所があるらしいこと。アメリカにさえ行ったこと無いのにこの名前がついていることが気になるし、実際にはそこはオタク聖地といわれる場所であると何かのエッセイで読んだことがあるからだった。僕はオタクっぽい性格はあるけれどオタクになりきれない半端な後ろめたさがあるんだけれど、別に見に行ってもかまわないだろう。
 そういう訳で、普通なら新宿駅で乗り換えるところ手前の中野駅に降り立った訳だ。結構な人が一緒に降りているところを見ると、おいらの仲間も多いのだろうか。
 人ごみの流れの通り北口から外に出て道路を横断し歩いて行くと、中野サンプラザが目の前に近づいてきた。雑誌では何度も目にした場所だが、そうか中野にあるから中野サンプラザなのか。などと馬鹿げた当たり前のことに何故か今頃気づいて、我ながらアホかもしれないとも思った訳だが、誰かのコンサートが目当てであるわけでもないので脇を通り過ぎてどんどん歩いて行った。歩いて行ったが、さて中野ブロードウェイなんてどこにあるのかよく考えてなかったことに気付いた。またまたアホである。
 携帯で確かめてみるとそんなに遠くないような気がするので、今度は信号を渡って右を目指していくと、すぐに中野ブロードウェイという自動ドアの入り口が目の前にあった。ずっと脇を並行して歩いていたらしい。なるほどここか、と思って中に入ると、さらに驚いたことにほとんどシャッター街なのであった。いや、正確にはまだ午前中の10時ころだったので、まだお店が開いて無いという状況だったのだ。中野の商店街の人が特に寝坊助という訳ではなく、商業施設はそんなものなのだろう。すぐに通り抜けてしまってなんだか口惜しいから、アーケードから路地に入って、居酒屋とか焼鳥屋とかラーメン屋のひしめく通りをぶらぶらした。もっともここも夜はにぎわうのだろうが、午前中なのでみんな閉まっている。不機嫌そうな親父がタバコをふかしながら新聞読みながら歩いている程度である。路地をまたジグザグとでたらめに歩いて、さらに中野ブロードウェイらしき別の入り口を見つけたが、鎖やポールが張ってあって入れないようだった。若者の街は目覚めが遅いのだ。
 という訳で初中野ブロードウェイは完全空振りに終わったのだが、とにかく少しは散歩出来た。やっぱり新宿行くしかないな、と思い直して駅に向かったのでありました。
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非常時に言語も備えられるか

2012-03-15 | ことば

 311を境にいろいろと報道も盛んになったし催しなんかも多くなり、改めて災害を検証するという試みがなされたようである。ある人が言っていたけど、復興はまだまだであり、この区切りが終わりになることが恐ろしい、ということだった。確かにこれで支援が一区切りになったと考える人も増えるのかもしれない。風化の恐ろしさである。

 そういう中で少しだけ気になったのは、避難する時にこれほどの津波を想定していなかったという意識もさることながら、誘導を呼び掛ける際の言葉遣いに妙な丁寧さを感じたことだった。実際に津波が目の前に見えると、やっと「逃げろ」と悲痛な叫びになる。おそらく手遅れになった後だったかもしれない。
 日本語の命令というのは難しいもので「逃げろ」という呼びかけをすることに、遠慮を感じる意識があったのではあるまいか。上から目線なんて言葉もあるが、ましてや人に命令するような機会のある人は、案外少数なのではあるまいか。緊迫した状況にあってなお、人々に避難を呼びかける際にも「逃げてください」などとお願い口調にならざるを得ない。緊迫した状況でなお、丁寧さが要求されるのはどうしたものか。
 また女性が誘導を呼び掛ける際の難しさもさらに困難さを感じる。短くしようと思えば、せいぜい「逃げて」と願望を呼び掛けるしかない。劇作家の永井愛が、日本語は女に命令されたくない言語だと語っていたことがあったようだが、女性が命令形を使いたければ、確かに丁寧語にならざるを得なくなるようだ。女性が「逃げろ」と叫ぶ場面は、なかなか想定しにくい。まことに不合理で、非常時には困ったことではないだろうか。
 非常時でなくとも、例えば駐車場の整理などをする際も、誘導する方がドライバーにペコペコお辞儀したりして一所懸命お願いをしている。いうとおりするだけで何度もお礼を言われたりする。車の整理は多くの人の利益なのだから、誘導する人が卑屈になる必要など微塵もないと思うのだが、日本人の多くは、これを当たり前のように思っているフシがある。非常時でないとはいえ、これが非常時になるともっと混乱する原因になりはしないだろうか。
 平時には有効な日本語のコミュニケーションかもしれないが、非常時にはまさに「想定外」になりやすい言語としての欠点がありそうだ。もしくは日本人の精神性かもしれないが…。命令形でも不快に思わないドライな感覚を養成する方法は、何か無いものだろうか。
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顔のないスパイ

2012-03-14 | 映画
顔のないスパイ/マイケル・ブラント監督

 そう言えば出張中に観たんだった。リチャード・ギアの出演作ということもあってか、観客にはオバサン度が高かったように感じた。しかしながらそういう対象であるようにも感じられない映画だったので、実際は日本の多くの観客はどのように受け止めたことだろうか。演技として複雑な哀愁のあるところも無いではなかったので、まあ、いいとするか。
 アメリカで活躍するロシア・スパイの物語なのだが、確かにいろいろと伏線が張ってあって、あとでなるほどという点は多かった。途中まではそういう興味にそれなりに期待度が高まったのだけど、段々と現実離れしてしまって、最後はちょっと惜しかったな、というのが正直な感想。というか、アメリカ的な温情主義が鼻についたというのが玉にキズというか。こういうのは、むしろ一般の大衆に対するサービスなんだとは思うけれど、そういう企画でなければ商業映画を作れないという状況は、ハリウッドにとっては不幸な現実という気がしないではない。もちろん、これがいいというまっとうな意見が通りやすいからこそ商業映画は成り立つともいえる訳で、個人の不満としてはどうでもいいことかもしれない。
 空いた時間に合わせて選んだ映画なので、特に希望があって選択した訳ではない。しかしながら、そういう時間つぶしに観る分には、お気楽に楽しめる映画とは言えるだろう。十分ドキドキさせられるし、アクションも見所満載である。どんでん返しの数々も(ちと、ひっくり返りが激しいけれど)なかなか練られておりそれなりの整合性はあるようだ。深夜にサスペンスとして流れるには名作という感じの作りだと褒めておきます(そんな風に聞こえないかもしれないが)。
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欲望のサラダ

2012-03-13 | 

 レタスだけのサラダのことをハネムーン・サラダというらしい。レタス・オンリーだから、let us only(私たちだけにして)という言葉もじりということだ。それはそれで楽しいのだけど、レタスだけのサラダっていうとシーザー・サラダもあるな、とは思うわけだ。あれは色々入ってるんだという解説もあるようだが、店によっては基本的にレタスとクルトン程度のような気がする。まあ、オンリーじゃないからと言い張ってもいいけど。
 基本的にサラダにする葉っぱは、レタスを中心にするものが多いという感じもするんだけど、それほど生の葉っぱの旨さが光る野菜ということなんだろう。もちろん僕も大好きで、バリバリ食べていると草食系の血が騒ぐらしく、なんか少しだけ理屈をこねることを考えたくなります。いや、ならんかな。それに実際はどちらかというと肉食系だし。
 中華料理ではジャンジャン炒めて食うわけだけど、生じゃなくても大変においしいことは間違いがない。炒めると強い酒のつまみでも結構いける感じがする。もちろんご飯にも合う。
 そういえばこの間まではこのレタス君が随分高くなっていて、なんとなく心を痛めていた(うそ)。でもまあ、レタスを作っている農家にしてみると、高騰したほうが楽しいに違いない。安く安定して供給する努力もあるだろうけど、時にはボーナスが出るような感じだろうか。もっとも作れないから希少価値が出て値段が上がるわけで、上手く出荷出来た一部の人のみのことだろうけど。
 ニュース的には庶民性がなくなることは嘆かわしいことかもしれないけど、高くなっても気にならない人が買って食べる時期があってもいいんじゃなかろうか。そしていつかはちゃんと僕らのもとに戻ってきてくれる。
 近年は水耕栽培なんかの方法もあるようで、レタスといってもいろんな味を楽しめるようになっている。人間の草を食いたい欲求に、レタスはかなり貢献しているのではないだろうか。
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イルカの大群

2012-03-12 | 感涙記
Dana Point Dolphin Stampede Dana Wharf


 加津佐のイルカウォッチもこれくらいいると楽しいかもね。
 もっともこれだけいれば、漁師が獲る魚は居なくなってるでしょうけど。
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世知辛い世の中にあって

2012-03-11 | 感涙記

 北米にホオジロシマアカゲラという種類のキツツキがいる。雄雌区別がつきにくいが、時々オスの頭の後ろに赤い毛が見られる。松の木に穴をあけて巣を作るが、巣穴の周りもまんべんなくつついて松ヤニだらけにしてしまう。こうすると巣穴の中の卵や雛を狙って登ってくる蛇が、松ヤニが邪魔になるのか落ちてしまうのだ。なかなか賢いやつのようである。
 このキツツキがさらに偉いのは、ツガイで子育てをするばかりか、関係のない第三者の仲間までも、一緒に餌を運んで雛を育てるのである。どういう習性でそうなのかはよく分からないけれど、ひょっとすると社会性があるのだろうか。
 別に擬人的にどうこう言いたい訳ではないのだが、素直に偉いものである。子供を社会で育てようなんてことになっても、議論の上で個人の問題として放置しがちな国とは大違い、という感じはする。
 もっともホオジロシマアカゲラは絶滅危惧種と言われており、やはりそのような奇特なことをするような生き物は、少数なのかもしれないが…。
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あんまり迷わない日常の支えだが

2012-03-10 | 

 一時期は熱心に蕎麦を食っていたことがあって、特に昼時になると蕎麦屋の暖簾をくぐりたくなって仕方が無かった。たまに違うものを食うということはあるにせよ、ずっと蕎麦でもかまわない、という気分になったりするのである。ひとつは昼に何を食うのか迷うのが面倒だというのもあるし、蕎麦だと時間が無くても食えるので汗をかかなくていいというがあるし、それにやはり飽きのこない素朴な味であるというのが何よりだろう。時々温かい蕎麦を食わないではないが、基本的に冷たいものを食べる。それ以外を認めないような狭量な心持はまったく無いけれど、温かいのは一応別物という感じなのかもしれない。
 例えば駅の構内にある蕎麦屋なら、温かいやつしか無い場合があって、そういうのは駅蕎麦としてのひとつのジャンルである。これはあんまり旨い必要が無くて、むしろあんまり旨くない程度を持って満足感が得られる。もっともそんなに感動的に旨い駅蕎麦があるのを知らないので、そう思うのかもしれない。浜松町の醤油くさい蕎麦を食べて、ああ、東京に来たなあと思っていたのは、いい思い出である。今ではそれなりに意識が高まったのか、東京の汁蕎麦もそれなりに旨くなってしまったが。
 最近に限らずだが、蕎麦というのは妙に高級な食べ物屋さんになっているところも多い。それはそれで住みわけだからいいんだけど、たまにこれだけの量で本当にざる一枚なのだろうかと驚くこともある。重さにするとなんだか二百グラムもなさそうだ。最初から言ってもらえれば、あらかじめ大盛りにするとか数枚頼むとか、はたまた最初から入らなかったのだけど、出されてから驚くことが多いから蕎麦屋は油断がならない。そういえば店構えがということもないではないが、そんなに構えるほどではなかったのだけど、御見それしましたという場合があるのである。これは当たってしまったものは仕方がない。それなりに自信はあるらしく、不味くは無いがだまされてしまったような…。
 以前は都市部にしかそんな店は無かったから、場所代が高くて難儀しているのだろうくらいに考えていたのだけど、近ごろは田舎の郊外にあっても、このような立派なお店が増えてしまった。繰り返すが住みわけだから、こういう流れは一定の支持があるものなのであろう。せっかく立派なのだからお上品に食して帰るより無いけれど、小腹の足しにもならない場合は、もう少し蕎麦湯をたくさん出してくれるとか、考えてくれてもよさそうなものだとは思うのであった。
 そういう訳で僕の場合、もっぱらスーパーの干麺をたくさん茹でてもらって、盛大に盛った奴をズルズルやる方が幸福度が高いようだ。蕎麦湯だって飲み放題だ。聞くところによると蕎麦の方がうどんよりカロリーが高いそうで、なおかつ栄養価はあんがい低いんだそうだ。つくづく貧しい体に合う食べ物なんだと、感心する次第であります。
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ねがい

2012-03-09 | 読書
ねがい/楳図かずお著(小学館)

 凄いものを見てしまった。特に表題作は人気のある作品だという噂は聞いたことがあった。まあホラー作品がとりわけ好きなわけでもないから、気にはなったまま忘れていた。そうして今回手に取ってみて、忘れていたことを激しく後悔した。まさかこれほどの名作とは。思わず受験生の息子にも読ませて、勉強の邪魔をさせてしまった。もっとも、それほど感動している風には見えなかったので、読む時期としてやはり適切ではなかったのかもしれないが…。
 絵が怖いというのはあると思うが、楳図かずおの本当の怖さは、怖い対象の人間性が感じられることかもしれない。訳のわからない化け物であっても、何らかの意思を持っていても不思議ではない。普通であれば邪悪な心、もしくは悪魔的な概念かもしれないが、楳図作品の化け物であったり、つきもののようなものは、実は邪悪な考えから生まれたものばかりではないような気がする。むしろ怖がる方が考えるよりも、純粋で実直で醜い姿とは裏腹に、人間性の心から考えると、美しくすらあるのではないか。そういうことを化け物本人が語りはしないのだが、見ているこちらにはそのことが何となく伝わってくるようにも感じる。そういう複雑な背景を考えると、単に怖がって驚いている場合では無くなってきて、読後にもしばらく考え込んでしまったりする。今回は短編集だからそのような作品ばかりではないのだが、すぐに読んでしまえるものばかりなのに、読み終るのが何故かもったいなく思えてしまう。怖くて逃げ出したい設定なのに、その設定の世界にしばらく浸って物思いにふけってしまう。その深く意味深な世界に、さまざまなインスピレーションが稼働するのである。
 しかしながらこの短編集の最後の作品である「鎌」の最後に、数コマだがこの怖い話の生まれる創作エピソードがはさんである。これがまたとんでもない話で、作者が言っているのだから本当なのだろうけど、楳図さんというのは並はずれた変人である。そんな体験からこれだけ不条理で恐ろしい話を展開できるとは、まさに作者のパーソナリティがホラーそのものである証明なのではあるまいか。
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自由を妨げるものとは

2012-03-08 | culture
 当たり前の話だが、フランスには餡パンは無い。しかしながら日本では比較的ポピュラーなパンの種類と言えるだろう。パンはもともとどういうものかということに興味は無いが、フランスではいまだに優れたフランスパンを焼くということについては、伝統的かつ基本に忠実で美しいことを重視しているということだった。まっとうなパンの原型があって、それを追い求めるという感じかもしれない。
 フランス人に限らずだが、西欧の人たちが日本のパンを見ただけで奇怪に感じるらしいのは、パンのあり方そのものを覆すような多様性にあるらしい。日本のパン(のほとんど)は、パンでは無くてお菓子というか、まるで別のものだ、という。まあ、そういう観点からパンを見ると、そういうことになるのだろう。
 よその国から入ってきて、多様化する食べ物はたくさんある。その代表的なものはおそらくラーメンだろう。中国人が日本のラーメンを見て、自分の国の発祥の食べ物とは気づかない可能性すらある。確かに既に別物文化と言っていいとも思うが。
 問題はその食べ方で、ラーメンは音を立ててすすって食べたほうが、当たり前だが風味も増して、味も格段によくなる。これは日本の蕎麦文化とも通じる常識的な食べ方だが、食事の時に食べる音を立てるのが失礼だとする文化圏の人々には、なかなかこれが理解できないという。理解できた時の感動も大きいらしいが、そういうリベラルな考えに到達するハードルは高いらしい。小さいころから厳しく躾けられた食習慣だから、食べ物をすすって食べるということ自体が能力的に退化した人もいると聞く。保守的な考えといのは、このように根深いものがあるようだ。
 日本人というのは、能力的に創意工夫をする民族なのだ、という話もよく聞くところなのだけど、本当にそうなのだろうか。
 例えばこれが寿司なんかだと、海外に普及している寿司文化を見て眉をひそめる日本人は多いように思える。カルフォルニア・ロール程度なら面白がって逆輸入も出来たかもしれないが、よその国で日本人以外の作った寿司を食べて、おいしいと感じる人は少数だろう。
 日本の伝統とは別の文化にふれた時、そういう伝統的な背景を理解できず知らなかったからこそ、発想を自由にすることが出来たとは考えられないだろうか。島国だったからとか、いろいろと原因はあると思うが、日本の独自性は、逆に考えると他の文化に対する無知による自由さなのではあるまいか。最初から解放されているから、自由な発想で物事を考える自由さを手にできたのではないか。
 伝統的文化にとらわれない自由な個人の発想とは、もともと大変に難しいことのように思える。日本人が自由でいられるのは、他の文化に接して取り入れるという行為を実行する、というポイントがあるように思えて仕方がないのである。もちろん価値観としてそのことがいいことかどうかは、また別の議論である。
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水泳猫

2012-03-07 | 感涙記
Cat Goes for a Swim in the Sea


結構あるんですね。以前地中海かどこかの国に泳ぐ猫が居るらしいという噂があったけど、泳がせると泳ぐものなのでしょう。犬と猫はご先祖が同じなので、犬の出来ることは基本的に猫も出来るようになるのかな。わかんないけど。少なくとも人間に付き合わされる動物は、いろいろやらされて大変なのであります。


泳ぐ猫マリンちゃん♪


でぶねこ泳ぐ 泳ぐ猫1  swimming fat cat


海で泳ぐ子猫-*+*-/ (1)Strange short hair cats swim in the sea of Japan
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給水あれこれ

2012-03-06 | 時事

 びわ湖マラソンではまた新生山本選手の登場で、優勝したドゥングさんはすっかり霞んでしまった。まあ日本の興味は誰がオリンピックに選ばれるのかというものだから仕方ないが、ちょっとかわいそうな気がしないではない。もちろん山本選手の頑張りはドラマチックで大変よかったのだが。二位のポーランドの選手も(ポーランドの)国内最高記録だというし、話題の多い大会となった。
 今回は大本命だった堀端選手の失速というのも大きかったようで、ゴール後に倒れこむ姿は本当に痛々しかった。なんでも給水に失敗した影響があったのではないかと言われている。
 給水の失敗と言えば、最近までは国民的スター格の注目をあびていた川内選手も同じように、三度も失敗してその影響で失速したと言われている。ペースメーカーの選手が川内選手のドリンクを誤って飲んだりしたため、陸連や実業団の妨害疑惑さえ取りざたされた。自分の用意したドリンクをとれなくても、大会の用意した水は別にあるのだから、水分の補給が万全でなくなるというより、やはり失敗してしまったという心理的影響が、過酷なレースにおいてそれなりに大きなものであると言えるのだろう。
 箱根駅伝を見ていると、給水は伴走して手渡ししている。マラソンとはルールが違うのだろうけど、非常に合理的に思える。長距離の盛んな日本からは、ぜひこの点を国際ルールに取り入れられるよう提言すべきなのではなかろうか。
 また、日本のロードレースにおいては、自動車が左側通行というのも幾分不利な点もあるのではないか。逆に左利きの人には有利かもしれないが。かなりのスピードで走っているうえに密集環境で、なおかつ利き腕では無いというのは、想像以上に給水を難しくしているのではなかろうか。
 また、今回はロンドンだから日本と同じだが、その他の国でのレースの場合、右側通行に変わる影響も考えられる。給水のためのテーブルは両サイドにあってしかるべきとも考えられる。給水が大きなポイントになりうるということである以上、検討する、または提言する必要は大きいように思う。
 また、それほどデリケートなものであるということも考慮すると、精神的なタフさをどう鍛えるのかという問題もありそうな気がする。肉体的苦痛にメンタル面がいかに作用されるのか、そう言った配慮や研究は、今後ますます大切になりそうだ。精神論を押しつけて鼓舞するだけで、結果的に選手個人を追い詰めるのはいかがなものだろう。
 また、日の丸を背負うというような事をしきりに言いたがる報道体制なども、思い切って自粛すると、選手の精神的負担が随分軽くなることだろう。日本の選手を熱烈に応援することは、日本代表選手が力を十分出し切れないように妨害しているようなものなのではないだろうか。それが民意であるという安易な考えでは、一般人であるアマチュア選手が、十分に大舞台で活躍することを阻むことになるだろう。山本選手は立派だったが、大きな大会で伏兵が活躍する背景は、実際にそういう面が大きいと言える気がするのである。
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ヘリコプターの演奏

2012-03-05 | 音楽
Robot Quadrotors Perform James Bond Theme


 もの凄さと何となくの間抜けさがいい感じです。
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ペラペラになるとはどういう事? What is fluency?

2012-03-04 | ことば
ペラペラになるとはどういう事? What is fluency?


 彦左衛門さん、素直に面白いです。
 僕は基本的に誰が言ったからを問題にせず何を言ったかというのを大切にすることを、いわばポリシーにして物事を考えるように気がけているんだけど、こういう場合においてはやはり、誰が言ったかというのがもの凄く説得力があるという見本のような映像だと思う。
 実際にはそれでも難しいと考えてしまうのが日本人の多くだとは思うけど、ある程度なら誰でもというのは本当にありうるだろうとは思う。言葉を話す本質みたいなものかもしれない。どこまで自分にとって必要に思えるかということに尽きるようですね、こればっかりは。
 自腹で飛行機のチケット買ってから勉強すると、短期間でけっこういけるようになるんじゃないでしょうか。結局度胸があればってことかもしれないけど。
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