カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

犬も歩けば、ラッキーか?

2011-10-18 | ことば

 「出来るだけウロウロするようにしている。犬も歩けば棒に当たると言うじゃないか」という話に「なるほど~」などと頷いている人の姿を見ていて、めんどくさい性格なので「それでいいのか?」などと思ってしまうのである。
 もちろんそのような使い方は何ら間違いでもないし、当たり前の会話なのだろうけれど、「犬も歩けば~」ということわざは本当にめんどくさい言葉だと思う。
 もともとは、犬がウロウロしていると棒で叩かれることがあるように、じっとして余計なことをするな、ということなのだろうが、今はその正反対に、ウロウロしていると時には幸運に出あう、というように使われることの方が多い。そのようなまったく正反対の意味を持つ言葉というものが普通に流通してしまっていることが、本当にめんどくさいと思うのだ。
 もちろん、現実的には後者の使われ方をする場合が多くなっているということなのだろう。前者の意味に使う場合は「もともとは~」などと講釈する必要もあるのかもしれない。そうなるとことわざを使う意味など無くなるから、最初から使えないということになりそうだ。

 以前に加藤恭子さんという学者の本を読んでいて、finders.keepers.という言葉と考え方を知った。落し物は拾った人が所有者になる、ということらしい。西欧の人たちにはこの考え方は共通のものであるようだ。もちろん日本においても同じような状況になったとも考えられるわけだが、僕の印象だと、いまだに警察に届ける人も相当居るのではなかろうか。
 確かに100円落ちているくらいなら「ラッキー」ということでポケットに入れる人の方が多いだろうけど、例えばそれがどこかの店の中だったり、電車やバスのような乗り物だったりすると、店員さんに渡したり運転手さんに渡したりする人も増えると思う。少なくとも拾った瞬間に自分の所有という感覚にはならないのではないか。
 しかしながらそうはいっても、現代においては多くの人は、馬鹿正直な子供の時代を過ぎてしまうと、落し物は自分の物、と考えている人が増えつつあるのではないか。そして、一瞬で落とした人の心情を忘れ去ることもできるようになったのではあるまいか。
 これは大きな考え違いかもしれないが、僕はそのような考え方の変遷と、「犬も歩けば~」のことわざの解釈の変化にも、ある種の影響があるのではないかと思う訳だ。黙っていると禍に合わないという消極的な戒めよりも、能動的に行動した者に幸運が降りてくる方が合理的である。
 更に「棒に当たる」という表現も、棒は何のたとえ(以前は禍だったものが)はとりあえずなんだかよく分からず、「当たる」の方の、例えば懸賞に当たるなどの幸運な響きに引きずられて、良い方の語感と捉えてしまったのではなかろうか。
 あたかも幸運が道に落ちていて、それを拾うというか、出合ったものの勝ち、というか、そういうものの考え方が浸透するにつけ、それにふさわしいことわざの解釈を必要としていったのではあるまいか。

 そういう訳で、僕はこの「犬も歩けば~」のことわざ自体に、なんとなく嫌な感じを拭い切れずにいる。意味を知っている以上使いにくい上に、そのような利己的なしあわせを無自覚に望む心情が、あんまり望ましいものではないように思うのだろう。
 まあ、今時そんなに古臭い人間が生きていく方が面倒なのであって、犬はかまわずウロウロして良いのではあるけれど…。あんまり嗅ぎまわって顰蹙を買うというのは、やはり普通にあるとは思うわけで、そういう意味では、以前の意味が残っている方が、やはり使いやすい言葉なんだろうけどな、とは思います。


追記:棒が当たる、というのはブラック・モンブランのようなアイスもそうだな、などと思い出した次第。確かにあれはラッキーですね。犬がウロウロしてありつけるものではないにせよ。
コメント
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