クイーン/スティーブン・フリアーズ監督
ダイアナ妃がなぜ死んだのかというのは、交通事故が原因だろう。まあ、半分冗談だが、なんで事故を起こしたかということはドライバーの問題が一番にしろ、パパラッチの影響を否定はできないだろう。
彼女の映像を探すのに手間取ったので素行の悪い歌姫で有名なエイミー・ワインハウスを追っかけるパパラッチの映像を見てもらおう。
Amy Winehouse has a crazy day out!
この人はカメラマンを殴ったりするのでますます面白がってこのように付きまとわれるというのはあるのかもしれないが、まあ、パパラッチの実態としてはこのような感じで四六時中付きまとわれるということのようだ。ダイアナ妃も似たように付きまとわれていたと考えて差支えないだろう。
付きまとわれた最大の原因は、追放されたにしろ元英国王妃であったということと、やはり一般受けする美人だったということと、性格的な自由奔放さと、英国王室批判の目があったということがいえるだろう。まあ、一言でいえない複雑さはあるにせよ、気になる存在だからこそ付きまとわれた。今だに英国王室陰謀説が消えないにしろ、結果的に写真の嵐から逃れようとして事故を起こして死んでしまった。
さて、そこから映画は始まるが、国民感情は死んだダイアナを偲ぶあまり、英国王室を恨むようになる。そのようなときにクイーン・エリザベスは、どのようなことをしていたのだろうか。また、何を考えていたのだろうか。
日本の皇室がどんなものかよく知らないのだけれど、見た感じずいぶん英国王室は自由な感じがしたのだが、これでも英国人にとっては格式ばっているということなのだろう。日本人にはちょっと驚きである。スピーチだって原稿はあるにせよ、見ることなどまったくしない。そして普通の嫁姑関係のように、愚痴を言いながら生活している。これだけ人間的な生活をしているのなら、そんなに不満に思わなくてもいいのではないかと思えるほどだ。しかし、首相の忠告などもあり、徐々に国民感情の圧力に抗しきれなくなってゆく。ダイアナが招いた英国王室の最大の危機である。
ダイアナは王子たちの母親であるということもあり、母を失った王子たちの気分を少しでも癒やす必要があるということで、仏国で鹿撃ちをすることになる。エリザベス王女は鉄砲を撃つことはしないが、自分でRV車を運転して荒野を駆ける。車の構造に詳しいらしく、故障した原因もしっかり理解している。知性と行動力を兼ね備えたオバサンということだ。そして荒野の中で一人きりになったとき、大きな雄鹿が目の前に現れる。その猛々しさに暫し見とれているのだが、近くに狩人たちの気配が聞こえる。逃げるように促すが、なかなか反応しない。やきもきしながらハンターたちの気配のする方を見ている隙に、いつの間にか姿を消している。女王は、ほっと胸をなでおろすのだった。しかし、後日、その大きな鹿はついにハンターの餌食となってしまう。女王は獲物が格納してある場所に、姿を見にやってくる。首を切り取られても猛々しい、しかし無残な姿を見て、ショックを受けながらも何かの決意をする。英国へ戻る気持ちの整理をつけるのである。
女王といえども人間である。選挙権もないような特殊な人間ではあるにせよ、生身の人間であることは間違いがない。そこには立場やその人の持つ格調のようなものを持ち合わせているにせよ、絶対的にもともとが強い特殊性を兼ね備えて存在していたわけではない。今まではそういう格式の中にあって成り立っていた存在であった。今後もおそらくそれは大筋では変わりはないだろう。しかし彼女はあえて民衆との距離を近づけることによって、自分自身が何か脱皮していくように、しなやかに強くなっていく。これは演技が見事ということなのだが、淡々と何の変化もないように見えて、その変化の大きさにこの人の背負う物の大きさを見ることができる。このことに気づいている人間はそう多くはない。そしてその力強さに。
どこまで本当の話なのかは知らない。しかし、映画としてこの映画が妙に心を打つとしたら、それはある意味で真実の物語なのだろうと思う。それは必ずしも死んだダイアナの望んだことではないかもしれない。しかし、UKという国に一人しかいない存在の孤独と偉大さというのは、死んでも猛々しい大鹿のようなものなのかもしれない。
ダイアナ妃がなぜ死んだのかというのは、交通事故が原因だろう。まあ、半分冗談だが、なんで事故を起こしたかということはドライバーの問題が一番にしろ、パパラッチの影響を否定はできないだろう。
彼女の映像を探すのに手間取ったので素行の悪い歌姫で有名なエイミー・ワインハウスを追っかけるパパラッチの映像を見てもらおう。
Amy Winehouse has a crazy day out!
この人はカメラマンを殴ったりするのでますます面白がってこのように付きまとわれるというのはあるのかもしれないが、まあ、パパラッチの実態としてはこのような感じで四六時中付きまとわれるということのようだ。ダイアナ妃も似たように付きまとわれていたと考えて差支えないだろう。
付きまとわれた最大の原因は、追放されたにしろ元英国王妃であったということと、やはり一般受けする美人だったということと、性格的な自由奔放さと、英国王室批判の目があったということがいえるだろう。まあ、一言でいえない複雑さはあるにせよ、気になる存在だからこそ付きまとわれた。今だに英国王室陰謀説が消えないにしろ、結果的に写真の嵐から逃れようとして事故を起こして死んでしまった。
さて、そこから映画は始まるが、国民感情は死んだダイアナを偲ぶあまり、英国王室を恨むようになる。そのようなときにクイーン・エリザベスは、どのようなことをしていたのだろうか。また、何を考えていたのだろうか。
日本の皇室がどんなものかよく知らないのだけれど、見た感じずいぶん英国王室は自由な感じがしたのだが、これでも英国人にとっては格式ばっているということなのだろう。日本人にはちょっと驚きである。スピーチだって原稿はあるにせよ、見ることなどまったくしない。そして普通の嫁姑関係のように、愚痴を言いながら生活している。これだけ人間的な生活をしているのなら、そんなに不満に思わなくてもいいのではないかと思えるほどだ。しかし、首相の忠告などもあり、徐々に国民感情の圧力に抗しきれなくなってゆく。ダイアナが招いた英国王室の最大の危機である。
ダイアナは王子たちの母親であるということもあり、母を失った王子たちの気分を少しでも癒やす必要があるということで、仏国で鹿撃ちをすることになる。エリザベス王女は鉄砲を撃つことはしないが、自分でRV車を運転して荒野を駆ける。車の構造に詳しいらしく、故障した原因もしっかり理解している。知性と行動力を兼ね備えたオバサンということだ。そして荒野の中で一人きりになったとき、大きな雄鹿が目の前に現れる。その猛々しさに暫し見とれているのだが、近くに狩人たちの気配が聞こえる。逃げるように促すが、なかなか反応しない。やきもきしながらハンターたちの気配のする方を見ている隙に、いつの間にか姿を消している。女王は、ほっと胸をなでおろすのだった。しかし、後日、その大きな鹿はついにハンターの餌食となってしまう。女王は獲物が格納してある場所に、姿を見にやってくる。首を切り取られても猛々しい、しかし無残な姿を見て、ショックを受けながらも何かの決意をする。英国へ戻る気持ちの整理をつけるのである。
女王といえども人間である。選挙権もないような特殊な人間ではあるにせよ、生身の人間であることは間違いがない。そこには立場やその人の持つ格調のようなものを持ち合わせているにせよ、絶対的にもともとが強い特殊性を兼ね備えて存在していたわけではない。今まではそういう格式の中にあって成り立っていた存在であった。今後もおそらくそれは大筋では変わりはないだろう。しかし彼女はあえて民衆との距離を近づけることによって、自分自身が何か脱皮していくように、しなやかに強くなっていく。これは演技が見事ということなのだが、淡々と何の変化もないように見えて、その変化の大きさにこの人の背負う物の大きさを見ることができる。このことに気づいている人間はそう多くはない。そしてその力強さに。
どこまで本当の話なのかは知らない。しかし、映画としてこの映画が妙に心を打つとしたら、それはある意味で真実の物語なのだろうと思う。それは必ずしも死んだダイアナの望んだことではないかもしれない。しかし、UKという国に一人しかいない存在の孤独と偉大さというのは、死んでも猛々しい大鹿のようなものなのかもしれない。