一昨日の事なんだが、医師会の先生から鳥インフルエンザによるパンデミックの対策についての話があった。一通り報道等で聞く話と大差はないが、あえてこのような話をするのは、正しい知識を持っていたずらにパニックにならないようにしなければ、という趣旨であるらしかった。そうではあると理解したものの、実際の内容といえば大半はパンデミックの影響として考えられる、最悪のシナリオの強調であったことは疑いがない。実際に自分が感染したら神に祈れ(生き残れるよう)とか、最終的には自分の命は自己責任という話だった。病院だって閉鎖しなければというような話もあって、この話を聞いたことによりいち早くパニックになる人が増えることになるだろうということは十分に感じた。知識過多という感じかも。知っても知らずでも防げないし死ぬだけということであれば、知らない方が平和である。まあ、いざというときのために自己防衛として、食料備蓄を行って家族を守れというメッセージはあったにせよ。どの時期でそのような行動(一定期間の一家籠城)を実行できるのかという目安がはっきりしないために、ほとんど意味がないようにも思えたのは残念だった。これで生き残る人が増えたから意味があるということは言えないとも思う。使命感が空回りしているということだろう。
もちろんパンデミックは起こりうるゆゆしき問題であることは想定の範囲としてあるものだ。数年内に間違いなく起こる、という論理的根拠に乏しいにせよ、起こり得ない問題とは言えないところに問題がある。これは地震や津波のような災害にもいえることで、発生することを防ぐ手立てが無い以上、対策を講じて有事に備えるということに意味がないわけではない。知識として自分がまだ感染していないということがある程度想定される中であれば、一定期間の籠城という選択は心掛けよという程度の話だろう。
科学の世界では、ある可能性を否定するということの方が、無い可能性の肯定よりはるかに難しいというロジックがあることをわきまえる必要がある。幽霊というものは科学的根拠がまったく乏しいもので、無いと言い切ってもよさそうなもだが、見たという人がある以上、その現象を否定しきれるものではない。物理現象として反証できないことなので扱わないだけのことなのに、科学で説明できない、などとヒトによっては考えてしまったりする。そこまで極端な話ではないしろ、環境問題や有害物質の人体への影響についての議論にしろ、影響がないと言い切れるだけの証明をするより、あるという方が何千倍も簡単であることは、普通の論理的な考え方をできる人ならば、容易に理解できることであろう。もちろんパンデミックは無いと否定できないにしろ、だから安易にあると肯定することはフェアな議論とはとても言えない。遺伝子の違う鳥から人間への感染ということ自体、明確に証明されているわけではない。ましてやそのウイルスが変異して人間同士で感染するということは、まったくないとは言えないという段階であって、あったという確証は(可能性としてはあるといえるにせよ)まだないというところではないか。
もしあったらどうするの?その時はすでに手遅れじゃないか。ということは言えるにせよ、その恐怖のみで事実を湾曲していいとは限らない。特に鳥インフルエンザのように分かっているようでまだよく分かっていない分野の話は、ある程度知識のある人間の方がロジックを理解してしまい、暴走する危険がある。無知には分からない話だからこそ、倫理や正義の話として浸透してしまったりする。以前にあった共産主義のような革新的思想であっても、そのロジックが論理的かつ難解だからこそ、ある程度の知識層の方に訴える力が働いたとも考えられる。有害なものほど魅力的なものはないのかもしれない。
もちろん人類は長い間疫病の集団感染に苦しめられてきた経緯がある。人間というのは個人の指向性は多様であるにせよ、多かれ少なかれ集団を形成する社会的な行動をとる傾向にある。多くの疫病に対してある程度は克服してきたにしろ、未知の可能性であるすべての疫病に対して万全であるということは決して言えることではない。鳥インフルエンザがまだ克服できる段階にないといえるにせよ、具体的に問題化すればするほどに、解決への道筋は早まるという可能性の方が高くなってゆくだろう。そういう意味でこそ冷静に、発生可能性のある国々への援助を含め、やれるべき対策を練っていく根気強さこそ求められる対応といえるだろう。
話はまったく関係ないとは言えるが、僕の少年時代にはもっと絶望的なものが世界を曇らせていたことを思い出す。それは外でもなく冷戦時代の核の脅威というものが世界を覆っていた時代があったということである。今でこそソ連は崩壊したが、その時代にソ連の崩壊を予想した人など皆無と言って過言ではないだろう。もしアメリカにしろソ連にしろ、そしてほかの核保有国のどこかにしろ、誰かがミサイルのボタンを押すことがあれば、全面核戦争になり、ほぼ人類は滅亡するというイメージが現実に目の前にあった。僕の父などは真面目に核シェルターの建設を検討していたフシがある。いざとなればそうでもしないと家族の命は守れない。それは冗談でなく切実な問題として対応すべき正当な処置だったのである。しかし時代が変わった現在になってみると、安易に言っては失礼かもしれないが、むしろ滑稽にさえ思えるところがある。あれほど切実な問題であったし、人類が克服できそうな課題ではなかったにもかかわらず、まったく予期せぬ時代の流れの中で、核の脅威はほぼ可能性として半減以下のレベルまで下がってしまった。
繰り返すがパンデミックと核の話では根本的に話が違う。しかし、僕個人の感覚としては、何処かの(ここでは発展途上にある地域)の発生源から爆発的に拡張する疫病の恐怖というものは、どこか本当に現実的な恐怖であるのかという疑いを持ってしまうのである。もちろん怖くないわけではないのだけれど、さらに結果的に自分だけは助かる方法として知識をため込むという行為自体に対しても、何か割り切れないものを感じるのである。
今ではやむを得ない正当な対策であったということになっているのかもしれないが、養鶏所の鳥を全面処理したり、公園の鳥を完全駆除するような手法をとっている現実を鑑みると、発展途上の国そのものを封鎖監視するなどの法案さえ出かねない情勢を感じさせられる。口では言わないが、その先に最悪の事態として、やるべきことも実行できるように考えている人もいるに違いない。過去の歴史でいえばドイツなどには、そのような象徴的なことを実行した人物もいたようだ。そのような狂気が正当化されるということの方が、パンデミックそのものの恐怖より恐ろしいと考えるのは、単なる妄想にすぎないのであろうか。