聖地には蜘蛛が巣を張る/アリ・アッバシ監督
イランのイスラムの聖地と言われるまちで、連続娼婦殺人事件が起こっている。犯人の男は、普通の家庭があり従軍経験のある建築家で、敬虔なるイスラム信者であった。連続殺人をやっている動機は、いわゆる麻薬常習の多い娼婦を殺すことで、まちを浄化しているという狂ったものだった。ところが警察は被害者がそのようなまちの底辺の人々だったことと、そのようなイスラム社会の男性偏重の考え方がある中で、まともな捜査をやってもいなかった。そこにテヘランから女性記者が取材にやって来て、あれこれイスラム社会の男たちの周りを嗅ぎまわるようになる。彼らにとっては、女性が宗教を冒涜しているように感じて、面白くない。その間も連続殺人は行われ、犠牲者は増えていく。そうして女性記者は、娼婦に成りすまして犯人を誘い込む作戦に打って出るのだったが……。(以下ネタバレが含まれるので、読むのはご注意を)
16人もの女性を殺めていく連続殺人自体は、イランにおいても驚異のものであったのだが、同時にイスラム男社会においては、実際にまちの浄化というか、娼婦という汚点が少しでも減るということを歓迎している風潮があったようだ。そうであるから逆に犯人は、一種のヒーローとして扱われるところがあった。だからこそ杜撰な殺人にもかかわらず、犯人はなかなかつまらないどころか、野放しにされていた可能性さえある。実際に捕まってからも、犯人家族は、ヒーローの関りから逆に庇護されるのである(※ 僕はたとえ凶悪犯の家族であっても、犯行とは直接関係ないのだから非難されるべきだとはみじんも思ってはいないが、このイラン社会は、行き過ぎた異常さがあると言いたいだけである)。犯人の意志を継いで、息子に連続殺人を続けるように期待する空気まであるのである。
おそらくだが、この映画自体は、そのようなイラン社会に対する強烈なカウンターを放つための映画なのだろうと思う。イスラム教自体が悪いというよりも、このようなイスラム的な曲がった価値観こそ是正する必要がある、ということだ。たとえまちの汚点である麻薬中毒や娼婦であっても、それは、そもそも社会的な貧困が生み出している救済の対象のはずなのだ。それを個人的な殺人快楽のために、抹殺させて喜んでいいはずが無いのだ。そんな当然の事さえ分からないようになっている大衆に対して、目を覚ませ、と言っているのであろう。もっともそれが分かるのは、西側に住む価値観の人間だけかもしれないのだが。そういう分断が明確になり、より恐ろしい映画だともいえるのかもしれない。