カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

建築から見える日本人のエゴ   日本の醜さについて

2024-08-03 | 読書

日本の醜さについて/井上章一著(幻冬舎新書)

 副題「都市とエゴイズム」。日本人は集団主義で、協調性を尊ぶ民族だと言われている(いったんそういう前提ということにする)。しかしながら日本の建造物と、ヨーロッパなどの西洋の文化と比較すると、まったく違った様相が見えてくる。日本の無秩序で個性的な建造物と街並みに比べて、彼らのまちは整然と無個性に協調して建てられている。それは木造と石やレンガなどの素材だけの問題でもなく、戦争や震災によって破壊され再生されたものであっても、結果的に違った様相を呈しているのである。彼らは破壊されても過去と同じものを建て直し、同じ風景を再現し、古くなって使いづらくなったとしても、中身だけを改装して、何百年も使い続ける。日本は戦争や震災が無い世であっても、古くなれば建て直し、鉄筋コンクリートであっても、数十年で建て替えるのである。そこには日本の個性やエゴがむき出しになっていて、社会的に協調する西洋社会とは別のものを露呈させているのである。
 他にも、本場ケンタッキー・フライド・チキンのあるアメリカには、カーネルサンダースの人形は店舗の前には無い(日本から送られて置いているところはあるらしいが)。道頓堀の看板などが象徴的だが、日本の派手なデコレーションのある看板装飾などは、子供が喜び、親を連れて呼び込む仕組みを許容している。西洋人の道徳には、そのような姑息さを良しとしない協調性があるようなのだ。それはあたかも彼らの集団主義と日本の個人主義を、象徴的にあらわしている。
 しかし著者は、そのような建築物に対する執着に似た歴史に連なる人間の考え方のようなものに、日本の協調性の無さのようなものに、何か醜さを覚えているようすだ。それがこの本の題名にもなっている通りで、彼はいくら震災や戦争で破壊されても過去のままの街並みを再建させようとする、例えばイタリアなどに心酔している。それらの建物は、人を酔わせる魅力を放っている。そこに行かざるを得ない、観るべき建造物だからである。残念ながら、日本にはそれらがあまりにも少なすぎる、ということなのかもしれない。
 日本人論の多くは、この本でも語られている通り、実際には間違いだらけなのだが、日本人は外国人から無個性で集団的だと思わせられているに過ぎない。幻想を受け入れ、むしろそれをアイディンティティのようなものにしながら、実際には自分のエゴをさらけ出し、協調性を見出すことができない。それが現実なのである。
 ちょっと不思議な感覚に陥る人がいるかもしれないが、面白いので体験的に読んでみてはどうだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする