カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

捨てるのは先送り

2014-03-18 | 境界線

 最初は選んでいた。捨てるべきか、残すべきか、それが問題だ。
 捨てるべきものは実に多い。この機会に捨てて良いと決断できるのは、それなりに気持ちがいい。どんどん選別して、袋に入れたり、紐でくくったりして、処分のためにせっせと運ぶ。量が多いとそれなりに充実感がある。なんだかその分身軽になって、自由になったような錯覚がある。よくもまあこれほどため込んでいたものよ、われながら呆れる思いだ。
 しかし、これはこれで余裕のある話に過ぎなかった。捨てられるのは余裕の表れだ。捨てられるようなものが溜め込まれているから捨てられるだけの話で、日常的に必要なものと混在している不要物というのは案外多いのである。さらに不要だったはずだが、不要の中に必要が混ざっていたという疑いもある。ときは年度末である。会議も多いし、案内などの連絡事項も多い。不必要の中に確認すべきものがあった可能性はぬぐえない。
 そうこうするうちに出張に出てくる。以前なら主張前ならある程度の放置で対応する。そうして帰ってからひも解いて対応するればいいだけだった。ところが今回は微妙に勝手が違う。来る先から判断を早くしていたので、出欠の連絡が済んでいると考えられるものは、早めに綴じたり、捨てたりしてしまっている。連絡があっても既に捨ててあるのか段ボールに入れてしまったのか定かでない。相手のあることだからこちらのミスだろうが、こちらが事務局に案内発送を頼んだものでさえ、自分の出欠が定かでない。妙な感じのちぐはぐ感。探している余裕はないし、さきに進まねば〆切は乗り切れない。
 結局はすべてを箱に詰め込むという選択を選ばざるを得なくなる。捨てているような時間的な余裕を排する。それこそが時間の節約に他ならないのである。とにかく持って行った先で、物を選別するより無いのである。
 物を捨てられないのは土地があるせいかもしれない。今までも置いておけるスペースがあった。さらに移転先はそういう予備を準備している。開かずの箱がそのまま残る可能性が高くなっているのかもしれない。いずれは場所は枯渇するだろう。そういう将来のために先送りをする。それが結局は王道の選択肢となってしまった。モノというのは捨てられない方が人間的なような気がする。
コメント
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