模倣の殺意/中町信著(創元推理文庫)
ミステリを読む楽しみは、上手くだまされることによってその質の高まりは違う。考えてみると実にマゾ的である。逆にあまり楽しめないのは、上手くだまされなかったという自分の資質が大きいということも言える。幸い僕はだまされやすいという感じがあって、すなわちだからミステリは読んで楽しいということになる。上手な文章を読むだけで楽しいという人もいるだろうけど、そういうわけで、文章がそんなに自分に合わない場合でも、実際は大きな問題にはしないところがある。文章というのはぜんぜん自分に合わないというようなものというより、徐々に慣れていくようなことのほうが多いようだ。書いてある内容が馬鹿げていると途中で放り出したくなるけれど、だから文章に癖があったり感心しなかったりしたとしても、あんがいいつの間にか読み進んでいって慣れちゃうということになるのかもしれない。
さてしかし、途中からなんだかちょっと違和感があったのは確かだ。なんかお話の錯綜の仕方にほんのわずかだが違いがあるようにも感じていた。それはおそらくトリックが隠されているのだろうという期待もあるし、ひょっとすると作者の勘違いや間違いが残ってしまっているのではないか、という疑いのようなものだったかもしれない。読みながら騙されるのが目的だから、謎解きを本当にしたいわけではない。トリックが分かってしまったら、読んでいた楽しみが台無しだ。しかしその前にお話自体に齟齬があれば、さらに残念だ。ちょっと嫌な予感のようなものを持ちながら読み進んだということかもしれない。
そうであったのだけど、最後には安心できた。杞憂だったということかもしれない。なるほどそういうことか、それ自体が計算されていたんだな、ということだった。むしろ著者の読者へのヒントだったということもあって、あんがい著者は親切な心持の人なのかもしれない。実はもう物故されたらしいのだが、今になって再発掘されて売れているということも、なんだか少しお気の毒で、さらに人の良さのようなものも感じさせられる。
よくできた物語であってもドラマにしにくい分野というものがある。以前ならファンタジー作品で映像化が難しいという意味でもあったろうけど、CGがここまで発達すると、あんがい低予算でも映像化が可能になった。残る分野はこのようなミステリということになる。つまり本を読まない人には、この分野を楽しむことすらできないわけだ。意味が分からない人もいるかもしれないが、そういう人にこそ手にとってほしいという意味である。実は古典的な作品らしいが、現代的にタイムリーなのは、このような作風が今では逆に求められている可能性がある。そういう意味では流行なのかもしれないが、時代はめぐって面白いものだな、と改めて思うのだった。