311はあえて書かなかったな、というのはある。じゃあこんなことも書かなくていいんだけど、書かないことで考えるというのがあるんじゃないか、とも思うわけだ。思うんだけど、やはり言いたくない。そういうものなんじゃないだろうか。
僕らは戦後世代だから当然ながら戦争は知らない。しかし、震災というのはそういう感じがちょっとある。この体験というのはだから、そういう世代的な体験なんじゃないかと思う。戦争世代は違うというかもしれないが、僕らの中にはそういう気分というような共有感があるような気がする。それは実は世代も超えるもので、だからいいとか悪いとかいうことを抜きにして共有なのだ。いや、厳密には何にもいいことなんて言えないと言いながら良いことを語れるということがあって、だからそういう気分の共有が容易で、瞬時に伝わる何かがある。語りたいことがあるというのはそういう気分の共有の確認があるわけで、でも分かっているから、あえてもう、そっとしておくような、そういう気分があるような気がする。だから、生の当日はあえて避けてしまって、そうして振り返るようなことになると、ボツボツと、でいいような気がする。まだまだ生は、ちょっと避けたい。
それが理由という言い訳じみたことだけど、だからまた来年もそんなような感じでスルーするんじゃないかな、という気がする。もっと時間が過ぎてしまうと、当日でもなんとかなるような、気がしないではないんだけれど…。
実は食傷気味な感じも嫌なのかもしれない。だから避けてしまう。その時だけでいいはずなくて、むしろそれが違和感ということになる。もう少し向き合う感覚を単純化したくない。そういうものを複雑なまま、語ることが必要ななんじゃないか。3年は一定の時間だが、しかしまだ3年だ。風化しないためにも、イベントとしての311は、なんだか距離感がはかれない妙な日になってしまったように思えるのだった。