カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

これぞ名著・大推薦の書

2009-05-29 | 読書
やちまた/足立巻一著(河出書房新社)

 本居宣長の息子で国語学者であった春庭の伝記であり、春庭を通しての著者(足立自身)の半生記(というかほとんど一生)になっている。僕は以前に同じくこの著者の半生記である「虹滅記」を読んでいて、この著者自身が書く自身の半生記は知っているはずなのであったけれど、実に不思議なことに、まったく違う人の半生を読んでいるような錯覚に陥った。確かに文章や、不思議と構成までよく似ているし、やたらに墓ばかり尋ね歩いているところなどほとんど同じに違いないのだが、ちょっと視点を変えるだけ(というかどちらも綿密に描かれているが)で、まったく別人のような人物がたちあがっていて興味深かった。かなりしつこい筆致ながら、その粘着質ともいえる執念がまた面白く、いつまでも気になってやはり続きを読んでしまう。実をいうと今年の初めくらいからぼちぼち読み始めて、何度も中断しながら読み進んだ。古本で買ったので変色しており分厚い上に上下巻である。古文や短歌などが時折入っている所為もあるのか、なかなか読むのに難儀することもあるためか、おそらく読了するのに四十時間以上は要したものと思われる。確かに学術書などはそのような類のものは結構あるので、特に分厚く難解な本ということもないのだけれど、読んで楽しいのにもかかわらずこれだけ時間がかかったというのも久しぶりのことだった。ジワリと感慨深くいい本だった。
 春庭という人は日本語の文法の基礎をひも解いた功績の大きな人らしいが、早くに目が悪くなり、盲人のまま妹や妻の協力を得ながら研究を続けて執筆をすすめたものらしい。もちろんその素養をつくった宣長が偉大だということもあるのだが、よほど明晰な頭脳を持っていたのだろう。またそのように不自由だった所為もあってか、不遇にもかかわらず研究を重ね歌(詩)を詠った姿が何より胸を打つのだが、それに感化される著者の姿がまたなんとも言えない偏屈さで、また同じく読む者の心を打つのである。
 著者は学校の授業でこの春庭を知るのだが、春庭を紹介した白江教授のふと漏らした授業の言葉を時折思い出しながら、春庭の隠された研究について思いを巡らせてゆく。結果的に春庭が考えていた研究こそが元になって今の文法というものが決定的に形作られていることに確信をもって、いまだ見つからないその証拠となるものを探し求める。途中で戦争になり南国へ赴き絶望の淵をさまよいながらも生還することがかない、友人の死や仕事の苦難を乗り越えながらも晩年になっても春庭のことが頭から離れない。そうして歴史的な再評価と春庭の子孫の家から新たに古文書が発見されたりする。気がつくと自ら半世紀も春庭を追っての学問が続けられていたということになっているようなのである。そして誰も学者というものは、結局それくらいの時間をかけて物事を研究するものだということを知るのである。
 改めて一言で言えない執念と凄まじさを感じずにいられない見事な学問道というものの記録という感じがする。そして実のところこれでこの物語が終わったのかということではもちろん違うのである。人間のあくなき探求心とその素晴らしい記録というものについて、改めて考えずにいられない物語である。
 発刊当初も話題にはなったものとは思われるが、このような本が埋もれてしまうには本当に惜しいという気がする。時折この著者のことが発掘されるように紹介されることはあったようで、読んだことのある人間ならば、おそらくそのほとんどは、感嘆の声を上げずにいられない上に感動をつたえたくなるに違いなかったのだろうと思う。今は残念ながら古本としてしか流通していないようだが、今でも比較的に手に入りやすい「虹滅記」であっても良いから騙されたと思って手にとって読むことをお勧めする。最初は少し読みにくいと感じたとしても、いつの間にかその世界に引き込まれることだろう。そしてその綿密で濃厚な世界に入ることができれば、本当に得難い読書の時間を堪能することができるだろう。これこそ日本の名著として動かし難い特殊な本であると推すものである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

暴力を娯楽として観る

2009-05-29 | 映画
ランボー 最後の戦場/シルベスタ・スタローン監督

 たまには馬鹿な映画も観なくてはいけない。しかしながらそうかまえて探しても、中途半端な馬鹿ぶりに失望することもある。真剣に馬鹿な人間の作った馬鹿作品というのは、逆に心が洗われるような気がするものだ。ランボーの一作目は比較的まともだったが、段々と羽目を外すようになっていった。そうしてスタローン自体が監督して製作したと聞いて、なんとなく予感の働くものがあった。そしてその予感は見事に的中する。恥ずかしながらウチの息子達はげらげら笑いながら観ていたので、やっぱり子供は素直なものだと思ったことだった。
 くだらない作品だと目くじらをたてることはない。映画というのはそういうニーズもあるということだ。ただ間違ってこの映画で素直に監督のメッセージを受け止めることの方が、難しい場合もあるということはある。案外スタローン自身は素直に軟弱なハト派達を揶揄しているのだろうけれど、その思惑を受け止める感受性がこちらには足りないということなのだろう。
 しかしこの映画の教訓めいたところは、人間はしょせん肉の塊で、銃で撃てばバラバラに吹っ飛び、そしてその命は儚くも何の意味もなく無くなる。思想なんてものは一緒に消え去ってしまうものなのかもしれない。ランボーのひねた達観も、そうした無数の死の重なりによってもたらされているということなのだろう。ランボーはそうした無理解に結局は力でもって立ち向かう技術を持ちすぎているということなのだが、しかしそうした悲しい現実に対しては、甘いヒューマニズムではかえってやけどをするだけのことだということなのだろう。本気でやるには相当覚悟がいるぞ、ということは分からないではない。
 映画の構成は基本的には水戸黄門と何ら変わりのない話なのだが、スタローンのちょっとネジの締め具合のおかしさを楽しむにはいい映画だと思う。あえて言わせてもらうと、彼は本当は自分の崇高な思想を伝えたいわけじゃなくて、凄い戦いを見せたいということなのだろうと思う。しかし時代がそれを許さない。逆説的にそれを逆手に取って娯楽性まで高めているとしたら、やはり役者が違うということになる。考えすぎだとは思うが、こういう映画になってしまう原因というのは、結局はランボーが戦わなければならない理由とそう変わらないのではないかとは思うのだった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする