カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

淡々と生命を奪うというのが生きている証

2009-05-07 | 映画
いのちの食べかた/ニコラウス・ゲイハルター監督

 科白も音楽もなし、淡々と食料の大量生産現場を映していく。ユーモラスで美しく、そしてショッキングだ。食べ物は心して食べよ。生産現場は大変だ。知らないで済ませるのは偽善だ。人間は罪深さを生まれながらに背負っているのだ。食料と経済問題とは何か。農耕民族と文明の発展。工業国という人間の欲望。いや、単に羅列して見ただけである。この映画を観て勝手に考えてみるといいだろう。この言い方で語弊を感じる人もいるかもしれないが、極めてよく撮られているので、最後まで退屈しないで観終わることはたやすい。しかし、消化するのは難しい映画といえよう。
 大人には(自分のことを差し置いてでも)子供に命の大切さを学ばせたい、という欲求が強くあると思われる。僕だってそのように自然に考える。僕の父もそのように考えたのか知らないが、僕が高校生くらいの時に、飼っていた鶏をばらして食おうということになった。しかし材料となる鶏を誰かが殺さなくてはならない。紐と包丁を持たされて、お前がやれ、ということになった。紐は鶏の首をはねた時に暴れるので、縛ればいいということらしい。また血を抜く必要があるので、(死んだあとも)しばらくぶら下げておけと言われた。近くにいた厨房のおじさんは、自分がばらしたときには首をはねた後、鶏が(首なしのまま)飛んで行って往生したからしっかり結んだ方がいい、とアドバイスしてくれた。鳥小屋に行って「あいつがいい」と指さされた鶏を捕まえて、暴れる鶏をやっとの思いで足まで紐でくくることまではできた。後は僕一人でやれ、ということで大人は消えてしまった。首を持とうとすると激しく暴れる。ああ、羽もくくる必要があるのかと思いたち、とにかく縛ってみようとするが、もう無茶苦茶に暴れるのでかなわない。泣きたくなってきたが、ひたすら暴力的にぐるぐる縛るよりない。やっと形の上では動かなくなったが、鶏も疲れてしまったのかもしれない。農作業で使うトラックのバックミラーに逆さにつるして首を切ろうとしたが、鶏の温かい感触がなんとなく気になる。改めて軍手をはめて体温が手に伝わらないようにして首を一気に切ろうとした。鶏がさらに暴れるためか、包丁の当て方が悪かったのか、思ったようにざっくり切れない。少し切っただけで大変な騒ぎになり、何度も何度も包丁をあてる。いつの間にか羽を縛った紐が緩み、ばたばたと羽ばたいて大騒ぎになる。意地になって首を切っているが、それもかなり切れていっているはずだが、ぜんぜん死ぬ様子がない。最後は引きちぎるように首を取ったが、バタバタと羽ばたきは終わらず、一面血しぶきが飛び散り羽は飛びちり大惨事といった様相になった。トラックも血だらけになったので、後で掃除が大変だった。死んだあともお湯につけて羽をむしり、まだ温かい鳥肌があらわになってゆき気持が悪かった。その後はたぶん食ったはずだが、どのようにして食ったのか不思議と記憶がない。
 まあ僕は比較的にこのような場面には強いところがあって(血には弱いくせに)、やはり以前飼っていた牛をばらして食おうということになった時も、賭殺場に行って自分の牛の解体作業をしている横で、内臓を手でかき集めてコンテナとかズタ袋に入れて持ち帰ったことがある。一緒に行った当時の職員さんは途中で具合が悪くなったらしく、「すいません」と言ったきりその場から立ち去ってしまって、僕一人で延々とまだ温かい臓物を素手でかき集めてへとへとになった。一頭の牛のはらわたが、こんなにも内臓だらけだとは夢にも思わなかった。このときは新鮮な内臓をおいしく食った記憶があって、すでに子供ではなかったということはあるにせよ、それなりに図太く成長していたということなのかもしれない。またやりたいかといえば、やはり躊躇してしまうだろうけど…。
 しかしながら、誰もがそのような体験をできるのかというのは、しょせん無理がある話ではあるだろう。社会は複雑な分業で成り立っており、自分の持ち場以外のことを全部把握して生きていく方が困難な話だ。それがたとえ日常的に食べる食材のことであっても、すでに多くの人は命を食べているという実感すらつかみにくくなってしまった。そうであるからこそこの映画は撮られることになり、経済としての食というものについて、様々な問題を投げかけ意味を問うている。
 この映画のいいところは、鳥や豚や牛と並行して、植物である農作物も同じ視点で映像におさめていることだ。いきものとして哺乳動物だから残酷で、植物だから残酷ではないということはないという発見があって、少し驚いた。そして現在まで連綿として築かれてきた文明社会は、そういう生き物もあたかも工業生産物と同じ手法で、まさに生産をしている。厳密には自然をうまく利用している様が滑稽に映し出されるのだが、工業化ということも見事に表現しているといえるだろう。だからどうだということはあえて言うまい。観たくなければ観なくて済む問題になっているからこそ、あえて取り上げられるとセンセーションを感じられる題材になっている現実を、知るだけでも意味があるだろう。
コメント (2)
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