カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

暴力を娯楽として観る

2009-05-29 | 映画
ランボー 最後の戦場/シルベスタ・スタローン監督

 たまには馬鹿な映画も観なくてはいけない。しかしながらそうかまえて探しても、中途半端な馬鹿ぶりに失望することもある。真剣に馬鹿な人間の作った馬鹿作品というのは、逆に心が洗われるような気がするものだ。ランボーの一作目は比較的まともだったが、段々と羽目を外すようになっていった。そうしてスタローン自体が監督して製作したと聞いて、なんとなく予感の働くものがあった。そしてその予感は見事に的中する。恥ずかしながらウチの息子達はげらげら笑いながら観ていたので、やっぱり子供は素直なものだと思ったことだった。
 くだらない作品だと目くじらをたてることはない。映画というのはそういうニーズもあるということだ。ただ間違ってこの映画で素直に監督のメッセージを受け止めることの方が、難しい場合もあるということはある。案外スタローン自身は素直に軟弱なハト派達を揶揄しているのだろうけれど、その思惑を受け止める感受性がこちらには足りないということなのだろう。
 しかしこの映画の教訓めいたところは、人間はしょせん肉の塊で、銃で撃てばバラバラに吹っ飛び、そしてその命は儚くも何の意味もなく無くなる。思想なんてものは一緒に消え去ってしまうものなのかもしれない。ランボーのひねた達観も、そうした無数の死の重なりによってもたらされているということなのだろう。ランボーはそうした無理解に結局は力でもって立ち向かう技術を持ちすぎているということなのだが、しかしそうした悲しい現実に対しては、甘いヒューマニズムではかえってやけどをするだけのことだということなのだろう。本気でやるには相当覚悟がいるぞ、ということは分からないではない。
 映画の構成は基本的には水戸黄門と何ら変わりのない話なのだが、スタローンのちょっとネジの締め具合のおかしさを楽しむにはいい映画だと思う。あえて言わせてもらうと、彼は本当は自分の崇高な思想を伝えたいわけじゃなくて、凄い戦いを見せたいということなのだろうと思う。しかし時代がそれを許さない。逆説的にそれを逆手に取って娯楽性まで高めているとしたら、やはり役者が違うということになる。考えすぎだとは思うが、こういう映画になってしまう原因というのは、結局はランボーが戦わなければならない理由とそう変わらないのではないかとは思うのだった。
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