カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

かなりゆれました

2007-05-15 | 映画
ゆれる/西川美和監督
 評判自体は聞いていた。しかししばらく忘れていた。結果的にはそれが良かったと思う。何でよかったといわれていたのか、ほとんど知らないというようなまっさらな状態で映画を見ることができた。そういうまっさらなまま、この衝撃を味わうことができたわけで、いまだに心が揺れ動かされている。ネット上では感想でネタをばらしている人が多いのが残念である。「シックス・センス」のネタを教えていることと同じであろう。そういう意味では僕の文章も読むべきではないのかもしれない。これだけの名作はめったに生まれるものではない。この言葉だけを信用して映画を見るべきだろう。俳優の演技も監督の演出も話の展開もほとんど完璧である。これ以上もこれ以外もありえないだろう。

 兄弟だから分かることというのは確かにあると思う。心の奥底にあるズルさというか、感情のもつれも理解できる。長年一緒に暮らしてきたので、いろんな場面の生の感情をダイレクトに感じてきた。この場合この人は何を考えているということが、伝わり感じられる。しかし、それは本当にそうなのだろうか。本当に何を考えているのか分かっているのだろうか。相手が考えるずるさやホンネは、実は自分自身が既に持っているずるさやホンネなのではないか。自分の感情は人に知られたくない。自分が兄弟のことを理解できるように、兄弟も自分のことを理解している可能性は高い。自分自身としては、そのことに耐えられないのではないか。嫌な自分と向き合うのが苦痛なように、兄弟に反映されている嫌な感情と向き合うのがつらいのではないか。
 雑誌のインタビューで知ったのだが、監督の悪夢がモチーフになっているという。自分のずるさが出たというようなことを語っていたようだ。自分の感情の嫌な部分に向き合って普遍化する。作品作りとはそういう作業なのかもしれない。自分を掘り起こし、そして削り取る。ざっくり深い闇の奥まで迷い込んでいくような、不快だけれど逃れられない人間というものの業のようなものが見えてくる。ここまで見るものを自分自身と向かい合わせることができるなんて、映画という世界が如何に芸術として洗練されているものかと感嘆させられずにいられない。見終わってもまだ反芻して楽しめる。この揺らぎから逃れられなくなってしまっている。
 僕はたぶん同じ行動はとらないとは思う。しかし激しく共感することができた。涙もあふれてきた。どの立場に立っても共感ができる。最後に映画は観客を突き放すが、あとは確かに見たものの問題である。僕には豊かさが残った。そういう映画ではないのかもしれないが、僕は人間は豊かだと思う。それは弱く残酷である。キリストがなぜ磔になったのか。僕はこのように理解するよりないと思う。そして豊かになってゆくのであろう。その確信のためにキリストは死んだ。これは宗教の話なのではない。いや、宗教とはそういう人間と向き合う方法なのかもしれない。そして映画もそうなのであろう。
コメント
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